「骨董談義」カテゴリーアーカイブ

山根のこと

墓でギターを弾く。彼の好きだったnspの「お昼寝の季節」とブルースを少々

コレクションの理解者でありライバルでもあった高校時代の同級生であり出席番号も前後だった山根クン。彼は室町時代に紀州方面から宮古に流れ鍬ヶ崎に根を張った一族の末裔であった。そんなことも知らず高校時代は一緒に遊んでいて、その後はお互い楽器関連の仕事をするようになり、久しぶりに再開したらお互いが骨董マニアになって意気投合という仲だった。思い起こせば0点トリオと呼ばれた高校1年の時の16歳から震災前の52歳まで通算36年間もの間、濃密に過ごしていたのだった。そんな彼も出張先の名古屋で倒れそのまま還らぬ人となった。それから取り残された自分は骨董関連のライバルを失い研鑽を積むも虚しく、今では我欲の戦場から遠のいた世捨て人状態だ。そんな彼の生家に関連した原稿を執筆するにあたり、久しぶりに彼の墓に詣でた。ギターも一緒に弾いた時代もあって、冬の晴れ間に海を観ながら墓石に腰掛けてNSPなど弾き語りで演奏した。ああ、彼さえ生きていれば今の自分はもっと高見に登っていただろう。人生においてライバルはいた方が断然いいのだなと今更ながら思う。

初期伊万里徳利と浄瑠璃寺

浄瑠璃寺阿弥陀残欠と初期伊万里徳利

どうしても見たくて京都木津川、岩船山の浄瑠璃寺まで行ったのはもう10年以上も前だ。この寺には本堂に九体の阿弥陀如来が鎮座する真言の寺だ。寺は地味で小さいのだが阿弥陀九体に重文の憤怒系馬頭観音、吉祥天があって丁度特別御開帳だった。浄瑠璃寺があるのは京都だがほとんど奈良県との境で、帰路は奈良の近鉄西大寺駅から名古屋まで戻った。そういえばこの時の京都めぐりは丁度東寺の弘法様の縁日で骨董市が開かれていた。ついでに東寺の金堂と別棟にある小さな寺にあった愛染明王も見た。ほんと、こんな仏が普通にあるってのが京都奈良の凄さだ。ちなみに浄瑠璃寺の馬頭観音は外国に巡業中でお目にかかれなかった。こうして仏さんたちも巡業で現世の金を稼ぎ、その運搬や搬入で業者も潤うというわけだ。あと帰りは近鉄電車の窓から昔教科書に出ていたなんとか天皇の古墳とか、国宝の五重塔がある大野の室生寺とか、あやうく電車を降りそうになったぐらいだ。そんな思い出もあって、後日、浄瑠璃寺の阿弥陀様に胎内に保管されていた阿弥陀如来の文書という触れ込みだった残欠を入手したのだった。壺はよくある定番の秋草文様の初期伊万里徳利。注ぎ口にニューがあるが上りは最高、ほぼ完品。たまには飾って目の保養とした。

もんちっち

昭和時代から平成にかけて、仙台に本社を構えたエンドーチェーンというデパートがあって、その支店が盛岡の川徳デパート跡の建物にオープンした。岩手を代表する川徳デパートは僕たちが少年時代には憧れのデパートでその四階大食堂でお子様ランチを食べることは当時の子供のステイタスでもあった。そんな川徳デパートはこれからのおしゃれな時代の流れを察知して菜園に新店舗を建てて移転、名前もpark avenue KAWATOKUなどという横文字のファッションデパートへと変身した。しかし世の中がどんなにおしゃれになろうとも、庶民は昭和時代の安心感を求めていて、川徳跡の店舗で営業したエンドーはそんなバタ臭いニーズもあって意外と人気だった。こじゃれたマネキンと最先端でお高いファッションより、バーゲンとか日曜日のヒーローショーや小銭で遊ぶ屋上遊園地の方が楽しいに決まっている。そんなエンドーの販促キャラが「もんちっちと森の仲間」だ。もんちっちはサルと人間が同居したような形だが動物ではなくフェアリー、すなわち妖精で男の子と女の子がいる。人形のデザインは当時の人気テレビ番組「日立ふしぎ発見」の司会者、草野仁に似せた「ひとしくん人形」も手がけた「わしのよしはる」氏、製作は新小岩にある人形メーカー株セキグチだ。指を口に咥えるポーズをとれるように設計されいるのがポイント。顔とた手足がソフビで胴体はクタクタ系なので自立できないので、古伊万里の元禄型物の小鉢に入れて撮影した。

友人の十三回忌だった

赤ワインとビールとチーたらを供えた

高校の同級生であり三年間にわたり、僕の前の席だった友人であり、骨董蒐集の同志でありちょっとしたライバルだった彼が亡くなって、今年で13年目だ。震災の二年前、9月のイベントでライブPAの仕込みをやっているときに、彼の妻から電話があった「東名のSAで倒れて意識がない…救急車で名古屋の病院に運んだ、どうしよう」そんな内容だった。その時は疲労とか熱中症で意識を失ったと思った。しかし、病名はくも膜下出血でしかも脳の奥で手術ができない状態だった。翌日「おしっこ、でなくなっちゃた」と泣きながら電話があり、イベントが終わった翌日に亡くなったという知らせをもらった。
イベントなどほったらかして飛行機で名古屋へ飛べば最後に会えたかも知れなかった。悔やまれてならない。その頃は毎月東京へ通い彼と二人で骨董市や美術館を回っていた。そんな相棒を失った。それから彼のコレクションヤフオクで売却し売上金を奥さんに渡した。売り上げは300万近い金額だったと思う。
そんな彼の墓は蛸の浜の海が見える高台にある。何度か墓参りしたり、仕事で周辺の墓地や石碑を調べにきた時に手を合わせていたが、今回はコンビニでビールとワインとチーたらを買って墓参りした。線香を供え、燃え尽きるまでたたずみブルースとNSPを弾いた。高校時代彼もNSPをよく弾いていたものだ。たしか「お昼寝の季節」と「ちょうちょ」が好きだったな。この墓は線香を供える台が骨堂になっていて、葬式の後ここから彼の骨が投入されるのを見たのを思い出し。ビールとワインをたっぷりかけて墓地を後にした。

みやここけし再び

みやここけしを持っている人がいたら幾ばくかで引き取りますとアナウンスをして、約1ヶ月で母親、自分共々が通っている市内の内科開業医の受け付けのお姉さんが手持ちの中の一本を譲ってくれた。そしたら、今度は知り合いの寿司屋の女将から連絡が来て、亡くなった叔父さんの遺品に「みやここけし」があったから譲るという。何度かランチタイム後にお店に伺ったが、女将とは会えずそのままになっていた。そしたら、ある日、出勤したら会社のPCの前にどかんとこけしが置いてあった。仕事の相方が自分宛に預かってきたというのだ。うーん、しゃーない、というわけで、翌日の夜、寿司屋へ言ってお礼をした。ま、結局、刺身食って、ちょっと巻物つまんで酒飲んで、売上に貢献したわけですが、水屋箪笥の中に大小のみやここけしが並ぶことになった。

チャコちゃん人形のお召し替え

紺のワンピだったチャコちゃん人形も夏がくるので衣替え。白地に紺の水玉のワンピにお着替えした。ウィックは金髪からオレンジメッシュの茶髪にしたけれど、夏は暑苦しいからやはり金髪に戻した。秋になったら茶髪にもどしてふたつに結ってみよう。なんせ茶髪のウイックは自分がライブで使う女装用のやつだから、大人用で大きいし髪も長い。金髪は子どもオモチャカツラだから、人形にはこっちがサイズ的にフィットする。お着替え衣装のワンピやブラウスは西松屋で買ったり、ヤフオクで中古を買ったりして溜めている。

KAWAI楽器の足踏みオルガン

ウイルの後部座席を外してまで購入したカワイ楽器の足踏みオルガンの年式は不明だが、外装の雰囲気や譜面台の装飾などから見て、昭和40年代初期から中期ぐらい、西暦なら1970年代ぐらいの代物と思われる。約2オクターブしかないスケールに12センチほどの小さな鍵盤だ。黒鍵などは5センチにも満たない小さなおてて用の楽器なのだ。しかし、オルガンはふいご式だから踏んで空気を送らねば音が出ない。小さな子どもには演奏するのが大変な楽器だ。そんな時代を経てオルガンは電気でブロワを動かす電動オルガンへ進化し、その後ヤマハから音色を変えられるエレクトーンが登場する。自分がピアノ技術者だった頃はすでにエレクトーンの時代だったが、それでもたまにオルガンの修理や調律もやった。今はリードを引き抜く工具もリードを削る工具もないけれど、オルガンの音には技術者だった時代の思い出があるし、何よりオルガンのチープな音には自分が子供だった小学校時代の景色が重なる。だから今回のオルガンの購入は楽器としてではなく蒐集品としての購入だ。幸い天板ニス塗りの平板でちょっとしたものも置ける棚にもなる。断捨離もいいが好きなものに囲まれて過ごすのはもっと気持ちいい。しょせんは凡人だから物欲にまみれて生きて行こうと思っている。

アグネスラムのポスター

1977年、ハワイからきた爆乳のモデル、アグネスラムが大ブレイクした。自動車から化粧品、家電までアグネスのビキニで覆われた。日本人っぽい童顔で小柄、スレンダーなボディーにバスト90の迫力だ。様々なビキニのポスターがあふれていたが、僕がもっとも好きだったのはエメロンミンキー(シャンプー&トリートメント)のライムグリーンのビキニのポスターだった。そして、当時、そのポスターのアグネスのおへその位置から、ビキニラインの股間までの距離がどう考えても長いことが不思議だった。「へそ下三寸」とよくいうが、ビキニで隠れたアソコまでの距離が腑に落ちなかった。今考えると撮影時のカメラのレンズの広角ディストーションで身体が湾曲した状態で写っているからなのだが、当時はそこまでは思いつかなかった。
デジカメ主流となった現在は安いデジカメ一眼で仕事をしているが、銀塩時代はF=1.2の50mmのレンズも使っていたし、ペンタ6×7やマミヤ645などの中盤カメラも使っていたが、そんな時代の根底にあった絞り解放のボケ味の原点は、このエメロンミンキーのアグネスラムにあるのだ。当時のポスター、欲しいなと思ってヤフオクを眺めて、今回、やっと手ごろな価格で落札した。次は秋吉久美子の日産チェリーFⅡの「クミコ、きみを乗せるのだから」のポスターが欲しい。秋吉久美子が池に佇むヌードポスターも良かったな。70年代ってやっぱ、最高。

綿入れ半纏を修理

数年前、知り合いのおばちゃんから綿入れ半纏をもらった。もう歳だから要らな衣服を処分しているというのだ。その中で、そのおばちゃんの叔母さんが着たという古い綿入れを引き取った。もちろん無料。綿入れは二枚で、一枚は大きめの菊の柄、もう一枚はモミジの柄だ。どちらもちょっと派手目で男が着るには無理があるのだが、そこはほれ、得意の斜に構えたセンスで着こなすわけで、冬になると一枚は会社で、もう一枚は家で愛用していた。しかしどちらも相当に古い品で着ているうちに生地が裂けたり縫い目がほつれたりしていたが、綿入れを着なくなる頃にはそのまま仕舞い込むため、傷んだまま数年が過ぎた。そこで、今回は綿入れが必要な真冬の正月明けに修理に出した。そうしないとまた春になって仕舞い込むからだ。そんな綿入れが修理され縫い直しされ戻ってきた。もう花粉症がはじまって綿入れを着るほどの時期ではないが、朝起きて食事の支度をするときに綿入れを着ている。ちなみに修繕料金は二着で15000円。縫子は津軽石のおばあさんだが、綿入れは特殊分野らしく着物の縫子さんでは無理だったようだ。綿入れ文化も廃れて久しいが、それを修繕する技術も廃れているのだなと実感した。

東大一直線

コミックス落札

1970年後半から末期にかけて、小林よしのりの『東大一直線』が最高に好きだった。基本、ギャグマンガ派の自分は、これと、とりいかずよしの『トイレット博士』を読むためジャンプを見ていたと言ってもいいだろう。秋本治の『こち亀』もこの頃に連載していたが、当時はまだ面白味に欠けた。その点、東大一直線とトイレット博士は、うんこ、ちんこのギャグオンパレードで楽しかった。どちらの作品も読み切り型式なのだが、東大一直線の方は高校入試、そして学年が上がり大学センター試験などへ話が進んでゆくことから、ストーリー性があった。そしてこのマンガは一生読みたいと思いコミックスを買った。連載終了後も思い出したようにずっと読み続けていたのだが、とある事情で家を出る際に持ち出すのを忘れてしまったのだった。その後、コンビニで色々な名作マンガの復刻版が出る度に『東大一直線』出ないかな、また読みたいなと思っていたのだが、このほど、後発で販売した愛蔵版的文庫コミックスではなく、当時の表紙のままのコミックス①~⑬をヤフオクで落札。久々に当時のギャグや世相を主人公「東大通」を通して堪能した。作者の小林よしのり氏はその後、東大通の女版でもある、その先を言わないで…の『異能戦士』(①~③これは持ってます)をジャンプに連載、『おぼっちゃまくん』をコロコロコミックに連載、その後は路線変更し週刊誌などで『ゴーマニズム宣言』『戦争論』などを発表、坂本弁護士失踪事件において、その真相に対してオウムの動機に触れ、結果、当時のオウム真理教の「ポア(消す)」するリストに載ったとか言われていたが、最近、マンガは見ていない。『東大一直線』とその続編でヤングジャンプに連載した『東大快進撃』は当時の大学受験と教育のあり方、歪曲した時代と結果、その後に大事件を起こすオウム的思想も見え隠れする。ギャグマンガとして人を笑わせ、世相を憂いで哀れむ…。そんな気骨あるマンガが今の時代、ほとんどないような気がする。
ここ1年ぐらい、ずっと週刊少年ジャンプを読んできたが、ギャグマンガはもう廃れている。というより、人を笑わせるマンガ家が育っていないようだ。今の読者は回りくどい評論家みたいな若者が多いようで、スパッと少年を笑わせるマンガを幼稚だとしている。いったい少年マンガの対象年齢って何歳なんだろう。うんこ、ちんこのマンガを読みたいならコロコロコミックとか読めってことか。なんだか少年ジャンプも敷居高くなったものだ。それでも楽しみしていた『鬼滅の刃』、『ハイキュー』も終わってしまった。少年ジャンプ、今度こそ永遠の卒業かも知れない。