アンテナ修理で第一関門突破

willの納車時なぜかアンテナが出でいて、おかしいと思ったら、アンテナ途中から曲がっていて引っ込まない状態でした。さすがにネット購入の落とし穴です。まさかそんなトラブルが潜んでいようとは。ビスタの時はサイドミラーの塗装の痛みとバイザーの欠落でした。いくら、写真が豊富に掲載されていてもこんなことはよくあることです。仕方ないので、まずはアンテナ折れてもダメ元で、叩いたりハンマーで均したりしてなんとか、だましだましでアンテナ4段目を格納。あと3段目、力わざで押し込みました。ラジオを聞くときは一番細い部分だけを伸ばしてやれば、市内ならなんとか受信できます。それにしても、わざとレトロなロッドアンテナを採用したのでしょうが、これはいけません。いたずらされたり木立に擦ったりしてアンテナが曲がってしまいます。ラジコンみたいで可愛いのですが、デザイン的にはルーフ上の方がよかったと思います。さて、次は音飛びするカーステレオ交換です。なんせ、CDとカセットのコンビデッキですから時代を感じます。しかも、エラー出っぱなし。これでは使えません。こちらはカーショップで取り付け。工賃やハーネス、ボックスなどで15000円ほどかかります。

すっきりしました
これぐらいで充分かも
やったと格納しました
運転席からも視線の邪魔をしない

新しい車はwill vi1.3

車を買い替えました。今まで乗っていたのはビスタアルデオで9月頃買い物帰りに対向車が飛ばした飛び石がフロントガラス右端に当たり、ガラスが割れてしまいました。割れは最初5㎜程度でしたが、翌日には30㎝ほどに成長、その後成長を続け、年を越した頃は70㎝ほどになり、しかも、割れ目から冷気が入り込むらしく、車内は寒いしガラスの内側はいつも曇っていました。フロントガラスにヒビが入っていると車検を通らないので、すぐに見積もりを取ったのですがなんと、部品代、交換料で22万円でした。これを車検時にやったら、この車を中古で買った時の値段を遙かに超えてしまいます。そこで、車検前に次の車をと探し始めたのが11月。すぐさま群馬の中古車屋でwillを発見し注文したのですが、これがハズレ。整備しても調子が戻らないとのことで、代金が返還されました。次に仙台の中古車屋にて白のwillを見つけ、年末に契約し、今月、車検付き、新ナンバーで納車となりました。色はシンデレラパール。本当はそんな限定色ではなく普通のバニラホワイトがよかったけれど、ま、しかたない。willの場合、メタリック系は年式も古いためクリア塗装が剥がれてしまうようなので、銀とか金は避けたかったわけです。スタイルは特徴的なグリフカットで申し分ないのですが、難点はラジオアンテナの折れでした。ネットでの画像ではそこまで気づかなかったのですが、レトロなロッドアンテナは根本で折れた形跡がありその歪みで、アンテナが格納できない状態です。ま、これは仕方ないことです。なんとかパーツを探すしかありません。あと、willは女の子イメージの車としてデザインコンセプトを持っており、なんと、シガライターと灰皿がないのです。タバコ吸う女は大勢いるというのに、大胆な設計です。これから、willとお付き合いしてゆくのですが、willの改造や気づいたことも書こうと思います。

車、買い替えました
カニの注意書き
雪の中で
紅葉の中で

寅次郎追悼ライブに参加

土曜日、友人であり、仕事で原稿をかいてもらっていた杉下裕、こと旅のレコード屋寅次郎の没後10周年記念追悼ライブに、うにまるでクレジットし、仕事の都合で不参加メンバーがいたので、急遽、パーカスとギターの2人ユニット、ミニマルで参加しました。演奏は15分で、3曲を演奏。いつになくリラックスして声も出て、いい感じでした。ただ、帰宅後、全身が煙草臭で、深夜に風呂を沸かし髪を洗った。しかしながら、寅次郎を慕う人は今も大勢いて、偉大なドラマーだったことを実感します。寅さんと私で石井建設から発電機を借りて、閉伊川河川公園で勝手に不定期路上ライブをやっていた、若かりし頃を昨日のように思い出します。ロックンローラは無様に死ぬのさ、と語っていた晩年、病院から戻ってきた寅さんの遺体の重かったこと。近いうちに、しばらくぶりで墓参り、行きます。

企画の親分はディンプルズの田中くん
スカバンドで寅さんとやったかっつさん
押しまくりのホットレックス
寅次郎のコスプレか?
愛車のトラックと。いつもこんな感じでしたね。
いつも騒ぐ、陶芸家・長塚氏

骨董入れ替え

7月に入れ替えして放置したままだった、知り合いの喫茶店の骨董品を入れ替えました。今回は古い狐のお面など入れたので、ちょっと怖い感じになりました。シリーズものは明治・大正期の剣先コップ。珍しいアラレコップや、リキュールコップを展示したけど、価値をわかってくれる人はいないと諦めています。あとは、プライスなどを書くのですが、めんどくさいな。

骨董入れ替えした
ちょっと怖い感じ

シャビーな廃虚ラブホ

小学生の頃、通学路にあった製材所の壁面に「バステル峠」「貸別荘・払川」という看板があった。時代的には昭和46年頃であろうか。その時代、まだモータリゼーションは今ほど普及しておらず、自家用車でラブホに乗り込む人はそうザラにいなかった。というより、車は今より珍しかったからそんないかがわしいような休憩ホテルに入ると、車種やナンバーからその本人が知られた。そのためか、このようなホテルを利用する人はタクシーを使っていた。タクシーの運転手に何時に迎えに来いとわずかばかりの金銭を握らせたり、翌朝早くに迎えに来いなどと注文したらしい。このような施設は当時、貸別荘とかバステルなどと呼ばれていた。セックスをする前とかその行為後に風呂に入って身体を洗うというのは、当時、かなり画期的で家風呂もなく銭湯通いも多かった時代は、セックス後は余韻を楽しむが如く、風呂には入らなかった。汚れたら流しの水道で部分的に一部を洗ったり、行水のようにタライに湯を張って洗っていたようだ。だから、そんな空間に風呂があるというのはものすごい贅沢感をアピールできたようだ。しかも男女一緒に入ったり、相手が入浴する光景を見たりもできて、普段以上に欲情する演出もあったろう。
我が人生の師匠の一人である、詩人・盛合某氏は晩年幾多もの自動車特殊運転免許を活かし、タクシーの運転手をしていた。客待ちで宮古駅で休んでいる彼に、タクシー運転手の醍醐味を聞くと、やはりラブホへの送り迎えが楽しいという。行為に及ぶ男女、それを達成した男女を乗せ、指定の場所まで行くり届ける。その複雑な空気感を車内で感じ取る、これこそタクシー運転手の特権だね、と笑っていた。彼はきっと、若い時分に、まったく同じ事を客としてやっていて、晩年には、逆側の立場になったのが、面白可笑しかったのであろう。師匠は50代後半で亡くなり、今では師匠の年齢に到達した感もあるが、まだ、自分はラブホを利用する側でいたいと願っている。
写真は仕事でとある神社を調べたついでに立ち寄ったラブホだ。昭和40年代にこの地にラブホを建てたのは地元の網元で、漁業から旅館経営へそしてホテル経営にシフトする中間あたりの事業であった。当時この辺りは何も無いのっぱらであったが、今は宅地化が進みラブホの真裏はごく普通の家だ。非日常もあったものではない。施設はその後、幾人もの経営者に転売され、今は、営業中止状態だ。

往年のラブホモーテル払川の看板
現在は営業していない
堤防沿いに看板発見
浄仏森の向こうに月山が聳える

初乗りはクラブマンを選択

なんだか寒かったり暑かったりの今年の冬だが、例年になく積雪はない。従ってフェンダーなしのバイクでもまだ充分に走れる状態なので、ここは、初乗りはクラブマンを選択。セパハンで手首や肘が痛いけれど、雪で道が濡れていることはないから、やっぱここは、ロード系でしょう。しかも、なんだか今日は暖かい。明日から天気が荒れるらしいけれど、正月は忙しかったし、連休なんだから、ここはバイク乗っとかなきゃ。というわけで、宮古道路から高浜異人館へ。コーヒーをいただき、45号線を佐原方面に。宮古病院の交差点から12月に開通したばかりの宮古西道路を黒森方面へ。トンネルの名称はなんと黒森権現トンネル?。すげー名前だ。そのトンネルの付近は小沢地区で、その昔、籠石冷泉があった付近。縄文時代の遺跡や義経・弁慶の伝説もあった場所だ。籠石の斜面を登れば県立宮古病院が見えたけれど、まさかそこに、こんな道路が開通するとは夢にも思わなかった。過去に黒森神楽の胴取りだった、佐伯くんが膵臓ガンで宮古病院に入院していた時、山並みを隔てて黒森伝承館で練習する神楽衆の音が聞こえたという。今となってはそれが幻聴であったとわかるが、黒森と宮古病院はかなり近い位置なのだ。復興道路だというが、開通した割に交通量はさほどないようだった。

店内から海が見えずとも異人館に変わりなし
異人館の防潮堤工事は進行中
佐原側から黒森権現トンネルを通過する
この辺に籠石があったはず
黒森権現トンネルを出て

こいつぁ、春から縁起がいいや。大網観音到達

昨年の11月に探索した船越半島大網観音にある秀全ゆかりの岩屋は、藪漕ぎと峰越えで大網沢へと辿りつきそこから沢を源流部まで探索したにもかかわらず空振りに終わった。その後、基本から情報を見直し、山田町教育委員会・生涯学習課で見せられた古い地図にあった「観音沢」という明記に注目、大網沢より一本北に位置する、この沢こそが大網観音のある沢であると確定し、年明け2日、再アタックとなった。コースは以前通り、登山道から逸れて地籍調査の目印テープをたよりに観音沢を目指した。しかし当初、安易に想定していた場所には岩屋などなく、結局は観音沢が海へ到達する海抜3mあたりまで降りてしまった。しかたなくそこから観音沢の斜面をジグザグに登りながらそれらしい場所を探したが、やはり見つからない。話は前後するが、年末に相方の安倍氏が経営する喫茶店に最近、大網観音へ行ってきたという客がきて、安倍氏はスマホの画像を見せられたという。その客は20代後半の大槌町に住む鞭牛研究家だという。その画像には太い杉の木が写っていたことから、今回は杉の木も含めて探した。しかし、登る斜面に杉はなく広葉樹とアカマツが茂るだけだ。海抜150~170mまで登り今回の探索も空振りに終わるかと思われたが、二手に分かれ大きく南に回り込んだ位置に巨大岩塊を発見、10mほど上から覗くとV字の小さな滝の流れ筋を発見。滝下には杉の巨木もある。発見を知らせるため声を出したが届かず、諦め気味にスマホを出すとアンテナが立っていた。すかさず、逆方向上部を探索している相方に電話する。こんな山奥の道もない秘境で電話が通じる快挙。トランシーバーも不要の時代になったと痛感した。その後合流しまずは危うい斜面での昼食。それから岩塊を巻くように移動し斜面を登り大網観音に到達した。滝はやはり枯れており水量は僅かだ。岩屋内部には如意輪観音と脇侍、岩屋前に鰐口が吊され、湯小屋があった場所には鞭牛の石碑が建っていた。湯ゴヤ跡には風呂桶、鉄砲釜、煮炊き用の竈、囲炉裏跡、小屋の部材とトタン板が残っていた。大網観音は観音沢上流ではあるが、かなりトリッキーな場所にありその本体は巨大な露岩で隠されていた。その風景はやはり南川目の十三仏霊場に似ており、巨大岩塊の露岩が景色を織りなしやはり修験好みであったかと納得した。そして今回、知ったのは資料にした地図に示された場所がまったくでたらめで目測であったこと。津波で流されたかも?などというありえない情報もあったこと。位置情報や到達した人々が案内人ありきであったことなど反省点も多かった。

大網観音岩屋内部の如意輪観音と脇侍
滝の水量はごく僅かでした
秀全入定の15年後に牧庵鞭牛が建てた供養碑
風呂釜と洗面器、調理用の竈
この狭き敷地に湯治場小屋があった
岩場の先端まで出みた
観音沢を登る