電動介護ベット導入

とうとう介護ベットが鎮座

母親の介護もどんどん奈落に落ちていく感覚で、イベントや事件発生も頻繁に起こる。今回はこの冬一番の寒波到来と同時に膝が曲がらなくなった。それでも母親は「手を貸してくれ」「助けてくれ」と言わない。トイレも無理してでも自分で済まそうとする。とうぜんトイレから下着から汚すことになる。あれこれ手を貸して指示してもその後母親は不機嫌になるようなので、やる気があるならそれを優先しているのだが、寒波到来二日目にはさすがにベットから起き上がることもできなくなった。しかもその日は積雪もあり、デイケアのバスも一時間以上も遅れた。ケアマネが駆けつけてきて骨折してる可能性もあるから「救急搬送をするべきだ」と言うが、こんな寒くて道路ツルツルの日に無理して救急車を呼ぶことはないし、どう見ても骨折はしていない。母親の膝が痛いという症状は以前にもあったので、整形外科は後日行くからとケアマネを納得させた。それより、もう歩けないからデイケアの車いす送迎と、家での介護ベットのレンタルについてのプランについての相談した。結果、介護度認定申請と電動ベットの導入を決定、後日、朝早く起きて母親が10数年前に大工さんを呼んで拵えた台所の小上がりスペース約三畳の撤去と掃除を敢行。なんとかベッドを設置するスペースを確保した。

寒ナマコとゴボウ巻き

ナマコはシンプルに酢醤油でいただく
ゴボウ巻き、今や200円もする

銭湯に行った帰りに風呂屋の向かいにあるスーパーで軽く買い物をしたついでに、奮発してナマコを買った。もちろん宮古産。ナマコは暗赤色の赤ナマコと真っ黒い黒ナマコがあって、赤い方が身が柔らかいというが、漁師の話ではナマコが生息する場所によって色が違うだけで赤でも黒でも味に差はないという。すなわちナマコは色より型と鮮度なわけだ。ナマコは古くなると内臓を吹き出す状態になってこれを「花が咲く」という。こうなったらきつめの酢でないと食べられない。内臓といってもミミズと同じで長い腸があるだけだ。この腸はコノワタといって塩辛にすると、のん兵衛にはたまらないというが、僕はそんな腐ったような内臓は食べない。海で生のナマコを裂きながら「心臓の薬になる」とかで生で腸をたべる人もいるが、人の腸だって何億もの微生物がいるわけで、無理して得体のしれない微生物を食うのもどうかと思う。ナマコはよく切れる包丁でなるだけ薄く切って酢醤油でいただく。ほのかな海の味にちょとだけ苦みがあってこれまた純米酒がすすむ。
酒のアテと言えば後日には「なあど」ぼ産直でごぼう巻きを買った。ずっと探していたが、やっと見つけたので、ごぼう巻きが好物の、某レストランのシェフにもおみやげで買った。知り合いの話では、昔は農家のおばちゃんが大量に作ってそこら辺のお店に卸して小遣い稼ぎをしていたらしいのだが、近年保健所の規制が厳しくなり、そのような一般家庭での調理品が販売できなくなったらしい。また材料や調味料の記載義務もあって多くの人が販売を諦めそれによってレシピが伝承せず、今となってはおいしく作れる人がごく少数になったというのだ。宮古でゴボウ巻きを入手できるのは、シートピアなあどの産直、駅前のトムトム、末広町の川目商店、西町ローソン隣の八百屋ぐらいだ。

クラブマン初乗り

爺様が無理しております

正月休みも長いと飽きるわけで、年寄りの冷や水を覚悟で雪も降らないからバイクの初乗りをすることにした。革のバトルスーツ、裏地がついた暖パン、防寒グローブで完全防備で浄土ヶ浜方面まで一回り。高速道路を80キロで巡行して次のインターまで走るにはやはり寒い。そこまでしなくともちょっとしたバイクらしい加速感を味わうだけで十分なのだ。クラブマンの改造もある程度まできていて次にやるのはライトとメーター回りなんだが、最近はボロいのもけっこういいなと思えるようになっていて、バイクも人生もある程度までいったならそれ以上は無理することはないなと思うようになった。自分の足でバイクを支えられる限り乗り続けたいし、クルマにはない加速感と排気音、カーブで車体を傾ける感触は何歳になっても快感だ。あくまでも法定速度内でのことです。60キロの速度まで何秒で達するかがいいのであってその足の速さがバイクの魅力だ。ま、安全運転義務違反と言われたらしゃーないですけど。

今年のおせち

カマボコのみ既製品、あとは手作り

正月のノリも多少はあって、テレビも料理も楽しかった頃は本格的におせち料理を作って正月気分を楽しんでいた。どこまでが本格的かというと、自分的には昆布巻き、黒豆、栗きんとんあたりを手作りすると一応、本格的という雰囲気だ。離婚して今は母親の介護生活だから、元旦は小鍋で雑煮を作って小さく切った餅を焼いてクルミのタレで母親に食わせればそれで終わりだ。とはいえ、元旦は朝からお酒を飲むからそのおつまみ的に何か作っておこう…という感覚で毎年、自分専用のおせちを作る。これがまたほんの少しだけ作るからけっこう複雑だ。料理はある程度の鍋でそれなりの量を作る方が断然簡単だ。大量にとか一人分というのがもっとも厄介だ。それでもまあ、あり合わせの材料でそれなりの品を揃え、元旦の朝に皿に盛り付けるとなかなかの見栄えだ。朝からちろりで燗酒。とろーんとした状態で大みそかの続きのゲームをはじめる。こうしてここ数年の元旦が過ぎてゆく。基本、一日、二日は一歩も外に出ない。

年末年始はゲーム三昧

大阪の海は悲しい色やねん…のエンディング
セリフはほとんど漫才テイストの関西弁
ついでに買ったナグザットのピンボール、デビルクラッシュ
猫とPCエンジンコアグラ

バブル景気が世の中を駆け巡っていた1983年頃にPCエンジンのヒューカードから「定吉七番・秀吉の黄金」というアドベンチャーゲームが発売された。メーカーはこれまたバブルの華として散ってしまったハドソン。ゲーム内容は大阪商工会裏組織の工作員定吉、コードネーム七番(007を意識している)は敵対する関東の組織NATTO(納豆)に、奪われた秀吉の古文書を奪回し、古文書に隠された秘密を暴き秀吉が隠した財宝を手に入れるというもの。当然ながら大阪のなんでやねん的コテコテギャグ満載で、そのノリはしつこくかなりくどい。舞台は大阪から東京六本木、長野の松本へと飛び、最後は大阪の港だ。裏切った仲間の女が死んでしまうラストシーンの定吉のセリフは「悲しい色やねん…」だ。ゲーム中盤の特急列車のシーンは難航したが、何とか大みそか、元旦、二日の3日間でクリア。このゲームがリアルタイムだった時代、僕は市内のファミコンショップの企画業で当たりそうなタイトルを漁って仕入れる情報集に大忙しだった。しかもファックスと電話交渉で。その時代にこのゲームも実際に買ってプレイしクリアしている。だから、今回で30年ぶりの二度目のクリアだ。

猫とわたし

ノラ猫サクラとの距離は寒さとともに最近かなりちじまってきた。ちじまり過ぎて布団の中を狙われている感があるが、そこは断固拒否だ。以前、入り浸っていたノラの茶トラと寝ていてヤマトダニに腕の内側を食われたことがある。ダニは皮膚を食い破って頭を肉の中に入れてくる。違和感というより痛い感じで、友人宅でシャツをめくったらダニが食いついており、これをピンセットで取った経験がある。ダニには血液関連のやばそうなウイルスもいて、その時に何かに感染した可能性もある。ま、30年以上も前の話で、何も発病していないからよしとしよう。今は寒い時期で外歩きした猫ちゃんにダニはついていないけれど三月ごろにはわんさかダニがいる。とはいえ、その時期にはもう部屋に入ってこないはずで、次の冬まで他人行儀な関係となる。ノラ猫とはそんな生き物だ。

ネギま鍋

ネギの焦げ目が香ばしい

震災前、自分がまだバリバリの週刊マンガオタクで、メジャー週刊少年誌3誌は勿論のこと、ビッコミ、スピリッツ、ビッコミオリジナル、モーニング、それと月刊ジャンプとマガジンなどを読みまくっていた頃、週刊少年マガジンに「ネギま」というオタオタ系のマンガが連載していてそれなりに人気だった。たまにか読まなかったが魔法使いの「ネギ」少年が女子高でやらかす…ストーリだった。お色気は晩年の少年ジャンプの「ゆらぎ荘のゆうなさん」には到底及ばないが、あの当時、そう2003年頃の少年たちは熱狂していたようだ。ちなみにその時代のジャンプのお色気マンガは「いちご100%」だが、やはり過去の「電影少女」や「ゆらぎ荘…」には及ばない。そんな週刊マンガもあの震災で行きつけの喫茶店が閉店するなど、マンガから遠ざかっているうち読めなくなった。せいぜい頑張ったのはジャンプの「ハイキュー」が最後だろう。まあ、そんなどうでもいいマンガのことを考えながら、ネギのぶつ切りをフライパンで焼いて、昆布だしで温めた湯豆腐にドーンと投入、刺身用のマグロをさっと入れてポン酢でいただく、元祖ネギま鍋をやった。たしかこのレシピ、鬼平犯科帳だったか、それとも仕掛人梅安だったか、とにかく時代劇で見たのを実践したのがはじまりだ。マグロ以外の魚でもそれなりに旨いが、やはり焼ネギにはマグロに限る。錫のチロリで燗をしながら台所でちびちびやるのが、またうまい。