ズサタン畑の大穴探検

大穴入口で
狭い穴を行く
崖。今回はここまで
斜面を降りる
落書き発見
入口の木偶人形

 

今は合併して宮古市だが昔の旧田老町と岩泉町の境となる、田老摂待から北西に向かった摂待川上流に畑という集落があって、その手前の胡桃畑集落との間あたりの支流の沢を北上したあたりに加倉という集落がある。加倉とは通称名で住所表記だと「畑」である。この加倉の沢に支流があってその沢を登った先の石灰岩の岩壁に、畑の大穴がある。ズサタンがこの穴を探索目的にしたのは2年前だった。オソノエラ洞窟の次はここと決めていたのだが、結果的に畑の大穴のアタックしたのはずっと後になってしまった。この穴への道のりはバイクでロケハン済みだが、その時、すでに林道は所々が川と同化していて、バイクでも途中までしか行けなかった。今回は上加倉に一軒だけある民家・外山氏宅に声掛けをして庭に車を止め、徒歩で穴を目指した。途中、それらしい別の沢に入ってしまったが、引き返し林道を進み、なんとか現地へ到着。
畑の大穴にはいくつかの伝説があることから、過去に何度か取材しており、今回で三度目の訪問だ。しかし、過去2回とも穴に入る装備も勇気もなく、外見の撮影のみであったが、今回は石碑や木偶、岩壁にあるその他の穴など、じっくりと観察した。メインの洞穴入口には自然が造った池があり、この池が結構深いためこの池をクリアするのが難儀だ。丸木が架けてあるがそれはすでに腐り、渡れば折れるのが目に見える状態だ。そのため石碑の裏側から池をかわして、対岸の通路に降りるちょっと腹筋や腱に負担のかかる荒技で第一難関の池をクリアした。その先は曲がりくねった溝になっていてしばらく行くと、直角の崖とその底に地底湖らしきものがある。崖を降りるにはロープが必要で、ちょっとしたケービング装備が必須だ。うむ、ズサマ二人では荷が重い。まさかの時にここで骨になるのもいやだし、今回はここで引き返すことに決定した。帰りに洞穴の壁面に昭和38年の落書きを発見。社会科クラブ・金沢正明とあった。もしかして自分の中学時代の先生だった金沢正明?同一?同姓同名?中学時代の金沢先生は3年生の時に英語と保健体育を教えていた。男子だけの教室で「お前ら、オナニーしてるだろ」といきなり言ったもので印象に残っている。また、情報によれば宮古一中で音楽の先生だったという説もあり、かつてローカル新民謡「鮭だハナマガリ」を演奏した宮古のバンド・みやこちんどんtaiの初代キーボードだったという話もある。金沢正明なんてよくある名前だから同姓同名なのかもね。

ズサタン岩泉の里山宇霊羅山

宇霊羅頂上で
まさかの急登坂
西塔幸子歌碑
三角点
ケツがすぼむ崖
掴まらないと不安

 

岩泉町市街地に宇霊羅山(599.9m)に登った。この山は今年の紅葉撮影のポイントだった岩泉周辺取材のメインとして日を改めて登った。街中の里山だし標高もさほどではないと甘く見ていたが、登頂は意外と難儀した。なにせ、里山ゆえ、登坂角度が一気なのだ。きっと岩泉の少年たちは軽く登ってしまうのだろうけれど、最近ちょっと肥ったズサマにはキツイのだった。数週間前に登った堺ノ神岳(1318.7m)の方が格段楽な登山だった。
宇霊羅山は石灰岩の山だ。その地底にはかの有名な観光鍾乳洞・龍泉洞がある。登山道は宇霊羅の東側にあり、いきなり急登坂、三ヶ所ほどのロープ場が存在する。息を切らしてその難所を越えると、石灰岩の巨大な溝である落ち葉の谷。ここを上り東の尾根に出る。南側には岩泉市街地が望めるがその眼下は切り立った崖だ。展望所から足下を見ればケツの穴がすぼむ。そんな尾根をしばらく歩いて頂上へ到達だ。ここで昼飯を食ってそのさらに西に聳える音床山(716m)を踏破する予定であったが、ズサマの体力と気力はピークを過ぎており、今回はここで下山。きっと下りは膝が笑うと思ったが、意外とすんなり里まで降りた。その後、明治乳業岩泉工場跡、西塔幸子歌碑などを巡って帰路についた。

落ち葉舞う仙台

ムーミンのランプ
変わった椅子に座る
仙台って丁度いい
落ち葉のけやき通り
ボールチェア
仙台駅

 

私用で仙台へ。空き時間に宮城県美術館へ。特別展はフィンランド独立100周年記念フィンランド・デザイン展であった。北欧デザインはおしゃれなライフスタイルを謳歌するちょっとリッチでハイソなアラフォー女子に人気とか聞くが、こちとら60寸前の骨董オヤジだからピンとこないだろうと、半ば期待せずに入館。1300円であった。特別展がたいしたことなくとも、この美術館の常設展は見応えがあるから、そちらに期待ということでひとまず、ロービーに展示された椅子に座ったり照明などで自撮りした。特別展の最初のコーナーは陶磁器だった。そして家具、ガラス…と続く。そしてお約束のムーミン。近年のデザインでは意表をつくようなポスター、家具、染色、服飾の原画が展示されていた。それらを見て思った。「おれも手で描かなきゃ」みんな一生懸命に鉛筆を走らせデザインしてるんだということを実感した。便利な世の中になったから、便利な物を使って何か作ろうと思っても、ありきたりのものしか作れないことを知った。例えばかまど炊きのih炊飯ジャーで米を炊くと旨いそうだが、実際のかまど炊きの飯も食ったこともないくせに、何が旨いのだろう。バーチャルな画材で絵の具染み込みまでシュミレーションしたところで、紙に絵の具で絵を描いたこともないくせに何がわかるのだ。展示を見終わり会場を離れると、最近の自分を反省するきっかけを教えてくれた。アートは手でやらにゃ。いかん。そう思った。
常設展も何かといい作品があった。というか、テーマはよく見なかったが集められた作品の作者が明治~昭和初期の著名画家であった。絵よりその価格を推測する方が楽しかった。
やはり、たまには芸術に触れて目の保養をしないといかんな。この歳になると知性は意図的に刺激しないとしおれてしまう。そんなことを思いながら枯れ葉が積もった仙台のけやき通りを歩いて駅に向かった。

恩徳にて

屋敷の建築部材
解体部材
前庭部分の石組み
蔵がまだ残っていた
小烏瀬川に架かる橋
畑の畦から屋敷跡へ

 

その昔、近々2000年がやってくるという期待感の中で1999年、わたしも深く関わったイワテミステリーフィールドマガジン『ふうらい』において第2号『遠野物語』で現代の遠野物語として取材した、恩徳の幽霊屋敷。当時、取材班としてわたしも現地取材に行った。当時は茅葺き屋根が抜け落ちそこから天に向かって樹木が生えていて、国道沿いからもその異様な廃屋を確認出来た。しかし、誰もがそこを通過して目視するだけで、その敷地内に立ち入ろうとはしなかった。なにせこの廃屋には昔から幽霊が出ると言われていたのだ。
当時、遠野でクチコミ取材をしたところ、かなり前にあの廃屋で肝試しをやったという若者のグループがあったようだが、その結末は陰惨なものであった。また、有名な心霊マンガ家が取材に来たが、足がすくんで入れなかったとか、霊能者が「自分より徳の高い霊がおり、自分では落とせない」と尻尾を巻いたとか…。どれも人の噂に尾ひれがついた半ばヨタ話であった。取材班は編集長、ADだったわたし、カメラマンの3人でその敷地に足を踏み入れた。庭だった場所は草ぼうぼうで、なんと雑草の根本にはあちこちに何匹もの蛇がいた。マムシかシマヘビはわからないが、カメラマンは怖じ気づいて固まった。編集長とわたしでその藪をかき分け玄関らしき場所へ辿りついたのだった。そこには瀬戸物や割れたガラス瓶が散乱しており、生活感の希薄な不気味な空間が広がっていた。さすがにそれ以上の進入は気が咎め、外観の写真を撮って退散しのだった。
その昔、川井へ抜ける立丸峠は難所で陽が暮れると旅人は仕方なく峠下の恩徳村の宿に泊まったという。その宿で事件が起きたというのだ。それが本当なのか、事実であればいつの時代なのか。それは誰も知らない。茅葺きに白壁のその家がいつの時代に没落したのか、それすらわからない。ただ、現地にはもう屋敷はない。部材と瓦礫が残るのみだ。ただ、蔵は未だに健在だ。表側から見たところ蔵の扉は開いたままで中には何も残っていそうがない。取材当時は古い蔵と思ったが、今見ると蔵に使われている外材や瓦、建築様式から見ても大正から昭和初期の作りと思われる。
最後に今回恩徳橋にバイクを止め、この屋敷の写真を撮りに畑の畦を歩き廃材を集めたサイロ付近まで行った時、不意に髪の毛が焼けるような臭いがした。錯覚ではない。もっとリアルな表現だと焼き場の臭いだった。見渡すと10mほど先の民家の薪ストーブの煙突から煙が出ていた。風向きはこちらだ。おそらくゴミでも燃やしたのか。しかしその臭いは一瞬だけ鼻腔を過ぎてゆき、その後は晩秋の山の匂いしかしなかった。
この空間が人の来訪を拒んでいるのは確かなのかもしれないと思った。

カッパ淵のオブジェたち

看板あり
釣りをするカッパ
不気味な女カッパ
不気味さが増した
小便カッパ
小便の水仕掛け

遠野の蓮池カッパ淵に謎のモニュメントが置かれ話題になったのはかれこれもう5年ほど前のことだ。不気味な妖怪ポストや原始人、鳥やミッキーマウス的オブジェが多かった。実はその場所には10年以上も前からセメントやモルタルを使って制作された人形が立っていたのだが、遠野340号線がバイパス化され、伝承苑がある旧340号線にバイパスからアクセスするため新しく道が整備されたのだった。道はもともとあったけれど、拡幅され橋も立派になった。それゆえオブジェは一気に人目に晒され有名になったのだった。わたしも2014年頃にその噂を確かめるため、この地に出向きその異様なオブジェをカメラに収め、このブログにもアップした。<br />
今回はそれから数年が経っているため、新たなオブジェが追加されているかもしれないと思い久々に訪ねたのであった。見た目で新しいものは、ションベン小僧のオブジェだ。これは汲み上げた水がカッパ像のチンコを経由して水車を回すというもの。なぜかカッパはヘルメットにメガネだが、おそらくメットは雨による劣化を抑えるためであろう。事実、妖怪ポストカッパは長年の雨ざらしによる不気味な痛みが発生していた。遠野新名所となるのか、それとも忘れ去られてゆくのか。今後も注目したい場所である。

スマホでカーナビ

慣れれば問題なし
こんな感じで使います
電源はこれを使ってます

この前金ヶ崎の帰り、紫波フルーツパークに行く道をロストしてしまい、しかたなくGoogleのナビを使ったけれど、スマホを置く場所がないことと、電源のバックアップがないことが不便であった。そもそも、スマホ契約が筐体持ち込みのため、一定額の掛け放題と契約できず、一定時間を超えると課金されるためスマホ機能はメールと簡単なアプリだけだ。そんな状態だが何かの時は使わねばならないと思い、スマホホルダを買った。ところが台座になるスペーサーがダッシュボードにくっつかない。どうやらwillの時代のダッシュボードの表面が両面テープにマッチしないようだ。しかたないそれならガラスしかないな。という訳でメーター上のガラスに吸盤で固定した。車検時は外せるからいいだろう。だが、付けてはみたが使ってみたのは一度きり。意味ネーじゃん。電源は日産エスカルゴ時代に買ったインバータ内蔵のノートpc用の電源。自動車の中で原稿を書いた時代もあったが、どれもヘボ文章であった。

今年最後のツーリングは遠野の福泉寺

この日は、午前9時30分過ぎに自宅を出発し国道106を盛岡方面へ。川井から国道340号に入り小国から立丸峠を越えて遠野へ。伝承苑前の交差点を曲がり附馬牛方面へ。約1時間30分の行程で福泉寺さわやかトイレがある駐車場に到着した。峠は気温4度ほどで曇り空だったため、身体の芯から冷えた。今回はFTR223を選択したのでナイロンジャンバーを着たのだが、いつもの革ジャンを着てこなかったことを後悔した。さて、イーハトーブの歌うたい・あんべ光俊さんがボーカルだった70年代岩手のフォークバンド『飛行船』のヒット曲『遠野物語』の歌詞に出てくる♪月夜の晩の福泉寺~という歌詞に誘われ、20代の頃に行った福泉寺は真新しいお寺と仏像のディズニーランド的だった。その後、40代後半であった1999年、岩手で発行した季刊誌『ふうらい』第二号の遠野特集の取材で訪れた。そして今、60代を前にして再び趣味で福泉寺を訪ねた。最初は新興宗教的風情のお寺だったのだが、不思議なものでそ場所に30年以上も鎮座すれば景色も馴染み、信仰も広がる。そんなもんだろうな、と思う。岩手に於いて拝観料や見学料を支払って入る寺や神社はごく限られていて、先月訪れた釜石大観音をもつ石応禅寺に続き、遠野の法門山・福泉寺はその中の一宇である。拝観料は大人300円で、山に点在する御堂や四国めぐり、観音めぐりなどが連なる坂道を40分程でひとまわりする。まず、昔と変わらぬ金魚鉢に入れるような白壁の中華的山門、アンバランスな仁王が立つ仁王門がお出迎え。あとは道なりに御堂や石仏を眺めながら歩く。最高部の山の上に30mもあろうかと思われる巨大十一面観音が鎮座する御堂があり、その脇にはどこぞの有名寺院にあるものと似た多宝塔がある。この日は中華観光客とやたらカップルが多かった。帰り道を行くと私の大好きなお目当ての五重の塔が聳える。なんか、昔から五重の塔が好きで関東やら京都などでいくつもの五重の塔を見てきたのでした。帰りは福泉寺門前の早池峰食堂にてカレーを食べ、早々に帰路につきました。

11時福泉寺着
竜宮城ですか?
微妙な造形
寺院風の売店
紅葉と五重の塔
門前の食堂

松の食堂のこと

ズサタン本部で土日にウエイトレスをしている彼女が言うに、宮古消防署に勤務する兄貴からの情報によれば、緑が丘で長年、大衆食堂をやってきた松の食堂が閉まるらしい。ならば、行かねばなるまい。というわけで、土曜日のランチタイムに行ってかしわうどんと半ライスをいただいてきた。さて、この松の食堂はその昔、わたしが編集する月刊誌の代表であり印刷所の社長だった故・駒井雅三氏が亡くなり、その行方が不明瞭だった時期に、月刊誌ゆえかたくなに月イチ発行にこだわり、社長の死亡でごたつく印刷所に見切りをつけて、別の印刷所に版下を発注したのだが、その会社が、松の食堂の近くにあったわけで、校正やら直しやらで缶詰状態で某印刷所で店屋物が続いた時期があった。その時出前でとった店屋物が松の食堂だったのである。当時、食ったのが旨いという評判のうどんだ。松の食堂がある交差点にはその当時、持ち帰り弁当チェーンのほっかほっか亭があり、その弁当もかなり食ったが、同じぐらい松の食堂も食った記憶がある。ただし、それは、来店ではなくほとんどが出前であった。聞けば、最近、旦那さんも出前をやめたらしく、緑が丘の近所はもちろん大口の消防署や振興局へも出前はしていないという。悲しいがそれもまた月日の流れであろう。だが、久々に食べたかしわうどんは、やはり旨かった。冬のなべ焼き、夏の冷やし中華、どちらも「はじめました」と店の入り口に貼りだしていたものだ。いつ閉まるのかわからないが、あたたかく見守ってやりたいものだ。

このテントが目印
かしわうどん
メニューはこんな
認定証がある