シャビーな廃虚ラブホ

小学生の頃、通学路にあった製材所の壁面に「バステル峠」「貸別荘・払川」という看板があった。時代的には昭和46年頃であろうか。その時代、まだモータリゼーションは今ほど普及しておらず、自家用車でラブホに乗り込む人はそうザラにいなかった。というより、車は今より珍しかったからそんないかがわしいような休憩ホテルに入ると、車種やナンバーからその本人が知られた。そのためか、このようなホテルを利用する人はタクシーを使っていた。タクシーの運転手に何時に迎えに来いとわずかばかりの金銭を握らせたり、翌朝早くに迎えに来いなどと注文したらしい。このような施設は当時、貸別荘とかバステルなどと呼ばれていた。セックスをする前とかその行為後に風呂に入って身体を洗うというのは、当時、かなり画期的で家風呂もなく銭湯通いも多かった時代は、セックス後は余韻を楽しむが如く、風呂には入らなかった。汚れたら流しの水道で部分的に一部を洗ったり、行水のようにタライに湯を張って洗っていたようだ。だから、そんな空間に風呂があるというのはものすごい贅沢感をアピールできたようだ。しかも男女一緒に入ったり、相手が入浴する光景を見たりもできて、普段以上に欲情する演出もあったろう。
我が人生の師匠の一人である、詩人・盛合某氏は晩年幾多もの自動車特殊運転免許を活かし、タクシーの運転手をしていた。客待ちで宮古駅で休んでいる彼に、タクシー運転手の醍醐味を聞くと、やはりラブホへの送り迎えが楽しいという。行為に及ぶ男女、それを達成した男女を乗せ、指定の場所まで行くり届ける。その複雑な空気感を車内で感じ取る、これこそタクシー運転手の特権だね、と笑っていた。彼はきっと、若い時分に、まったく同じ事を客としてやっていて、晩年には、逆側の立場になったのが、面白可笑しかったのであろう。師匠は50代後半で亡くなり、今では師匠の年齢に到達した感もあるが、まだ、自分はラブホを利用する側でいたいと願っている。
写真は仕事でとある神社を調べたついでに立ち寄ったラブホだ。昭和40年代にこの地にラブホを建てたのは地元の網元で、漁業から旅館経営へそしてホテル経営にシフトする中間あたりの事業であった。当時この辺りは何も無いのっぱらであったが、今は宅地化が進みラブホの真裏はごく普通の家だ。非日常もあったものではない。施設はその後、幾人もの経営者に転売され、今は、営業中止状態だ。

往年のラブホモーテル払川の看板
現在は営業していない
堤防沿いに看板発見
浄仏森の向こうに月山が聳える

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA