こいつぁ、春から縁起がいいや。大網観音到達

昨年の11月に探索した船越半島大網観音にある秀全ゆかりの岩屋は、藪漕ぎと峰越えで大網沢へと辿りつきそこから沢を源流部まで探索したにもかかわらず空振りに終わった。その後、基本から情報を見直し、山田町教育委員会・生涯学習課で見せられた古い地図にあった「観音沢」という明記に注目、大網沢より一本北に位置する、この沢こそが大網観音のある沢であると確定し、年明け2日、再アタックとなった。コースは以前通り、登山道から逸れて地籍調査の目印テープをたよりに観音沢を目指した。しかし当初、安易に想定していた場所には岩屋などなく、結局は観音沢が海へ到達する海抜3mあたりまで降りてしまった。しかたなくそこから観音沢の斜面をジグザグに登りながらそれらしい場所を探したが、やはり見つからない。話は前後するが、年末に相方の安倍氏が経営する喫茶店に最近、大網観音へ行ってきたという客がきて、安倍氏はスマホの画像を見せられたという。その客は20代後半の大槌町に住む鞭牛研究家だという。その画像には太い杉の木が写っていたことから、今回は杉の木も含めて探した。しかし、登る斜面に杉はなく広葉樹とアカマツが茂るだけだ。海抜150~170mまで登り今回の探索も空振りに終わるかと思われたが、二手に分かれ大きく南に回り込んだ位置に巨大岩塊を発見、10mほど上から覗くとV字の小さな滝の流れ筋を発見。滝下には杉の巨木もある。発見を知らせるため声を出したが届かず、諦め気味にスマホを出すとアンテナが立っていた。すかさず、逆方向上部を探索している相方に電話する。こんな山奥の道もない秘境で電話が通じる快挙。トランシーバーも不要の時代になったと痛感した。その後合流しまずは危うい斜面での昼食。それから岩塊を巻くように移動し斜面を登り大網観音に到達した。滝はやはり枯れており水量は僅かだ。岩屋内部には如意輪観音と脇侍、岩屋前に鰐口が吊され、湯小屋があった場所には鞭牛の石碑が建っていた。湯ゴヤ跡には風呂桶、鉄砲釜、煮炊き用の竈、囲炉裏跡、小屋の部材とトタン板が残っていた。大網観音は観音沢上流ではあるが、かなりトリッキーな場所にありその本体は巨大な露岩で隠されていた。その風景はやはり南川目の十三仏霊場に似ており、巨大岩塊の露岩が景色を織りなしやはり修験好みであったかと納得した。そして今回、知ったのは資料にした地図に示された場所がまったくでたらめで目測であったこと。津波で流されたかも?などというありえない情報もあったこと。位置情報や到達した人々が案内人ありきであったことなど反省点も多かった。

大網観音岩屋内部の如意輪観音と脇侍
滝の水量はごく僅かでした
秀全入定の15年後に牧庵鞭牛が建てた供養碑
風呂釜と洗面器、調理用の竈
この狭き敷地に湯治場小屋があった
岩場の先端まで出みた
観音沢を登る

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