「アートな出会い」カテゴリーアーカイブ

裸婦デッサンを買い取った

1980 jyaniari 29日 和 とサインあり

鍬ヶ崎出身で若い頃に渡仏、そのままパリ在住の日本人女流画家として生涯を閉じた、宮古人・豊川和子の裸婦デッサンを買い上げた。この絵は1980年に宮古のアマチュア劇団「麦の会」がアイルランドのダンドークという町で開催された、世界アマチュア演劇祭に特別招待され、団員一行がアイルランドからロンドン、パリと旅をした時に、麦の会で脚本を書いていた同会の田中氏と豊川女史が同郷だったこともあり、パリでの再開があったらしい。再開を記念して豊川氏は関係者数名にデッサン画をみやげに持たせたらしいのだが、その劇団旅行が新婚旅行でもあった関係者のカップルがおり、そのカップルも記念に豊川女史のデッサンをもらったという。時が経ち、そのカップルも壮年期を経て記念のデッサンも奥様の「断捨離」という判断で手放したいという。ならば私が引き取りましょうというわけで、こちらの提示額2万円で了解をいただいた。事実、パリ在住時に名が売れなかった豊川女史のデッサンに2万円という値段は高いけれど、大正生まれの宮古人だった彼女が教職を捨てて芸術の街パリへ単身渡仏した度胸はたいしたもんだ。日本にいた頃に二科展で入選も果たしていたわけで画力はそれなりなのだ。あとはこの絵を入れる新しい額を買わなきゃならない。また趣味が高じた要らぬ出費だが、人生はこれだからおもしろい。

懐かしいデザインの空き缶

アサヒラガービールとファンタグレープのスチール缶

スチールの空き缶にもデザイン的歴史があって、飲み口の形状やサイドの接合部などは時代時代によって制約や規制があってデザイナーも頭をひねったであろう。デザインも飲み物も昔の方が良かったと言ってしまえば身も蓋もないが、1970年代のファンタグレープなど今見てもアメリカンテイストが漂っている。いかにもスッキリとおいしそうだ。これをキンキンの氷水で冷やして一気に飲んだ日には天地が反転するほどおいしい。その甘さと香りは今のまじめすぎるファンタでは到達出来ない高見までトブ。同じくアサヒの缶ビール。缶ビールという名称がまだ珍しくて、販売しているのはキヨスクぐらいで、飲兵衛たちはやはりビールはビンに限る缶は「鉄臭い」と言って嫌っていた。ビールとは謳っていても今の辛口ドライ生とは雲泥の差。炭酸の起ち上がりも低く泡はすぐなくなる。そんなあの時代のビール。昇る太陽をイメージした朝日ビールの缶。門馬の山中の不法投棄されたゴミの中で見つけました。ちなみにファンタの方は山田町織笠鯨峠の山中で拾った。二本とも卵の殻で内部の汚れを落としてコレクション予備軍となっている。

赤と黒のさあもん太

オリベッティタイプライター赤と黒。昔はあこがれたものです

僕がデザイナーとして鼻息を荒くしていた、もう今から30年も前のこと、宮古市のシンボルマーク応募のコンペがあって、応募したのがサケの赤ちゃんをモチーフにした「さあもん太」だ。コンテストではおしくも特別賞を受賞したが、それは甲子園の優勝校と準優勝校と同様に、とって付けたような賞状だけで賞金も出なかった。賞金もなしでデザインの版権だけはよこせという指示に反感を覚え、特別賞受賞を辞退しデザインを、当時自分が販売促進で手伝っていた地元のお菓子屋さんへ寄贈する旨を伝えた。特別賞とはいえ使いもしないデザインをお蔵入りにすることもあるまいと思ったのだ。そしたら、デザインとしてシンボルマークとは別の部分で使いたいという。しかも版権は買い取るという。その金額10万円+アルファー。よし、売った。そんなわけで「さあもん太」はお菓子のサブレーの型となって販売される道から晴れて宮古を象徴するマスコットデザインとして、封筒や、乗合バスのラッピング、移動図書館車、漁協のゴミ袋など、さまざまなところで利用された。そんな中に市内のワークショップが生産するミニタオルがあって、これに「さあもん太」がプリントされ今も現行販売されている。今はもう「さあもん太」を知る人はわずかしかおらず、デザインも今風なゆるキャラ風にアレンジできないことから見向きもされない。しかし世の中には奇特な人がいるもので、ミニタオルに使われている判を使ってTシャツにプリントしてくれた人がいる。製造枚数は限定3枚。そのうちの赤と黒の二枚を頂いた。お気に入りの部屋着にしている。

チボリのラジオを入手した

家具調の木目が美しい
ロッドアンテナをAmazonで購入。780円でFM受信の感度がアップ

チボリという北欧のオーディオメーカーから発売されているラジオがスマートでかっこいい。ラジオといっても多機能型ではなくごく普通の据え置き型で、FMとAMの受信しかしない。ラジオはほぼ毎日、毎朝毎夕に聴いていて世間の事件や情報のほとんどをラジオの音声のみで取り込んでいる。テレビはよほでないかぎり観ないのでラジオ依存型の生活だから、いい音がしてかっこいいラジオが欲しかったわけだ。それまで知り合いの家で捨てるという東芝のポータブルラジオを貰ってきてそれを使っていたのだが、最近ボリュームのザリが激しくなったうえ、とうとうFMの受信ができなくなった。FMはほとんど聴くことはなく、ほとんどがNHK第一とIBCローカルだけなのだが、最近はNHKの番組の中にも聴くに堪えない酷い番組があって、選局を変えるのだがその選択肢の中にFMがないというのは痛いわけで、まともないいラジオが欲しいと思っていたわけだ。ならばとヤフオクで当時のSonyスカイセンサー、東芝のクーガー、ナショナルのワールドボーイなどを買おうとしたのだが、それら機種は高性能で懐かしくかっこいいけれど、音が悪い。実際に中学の頃は父親が使っていたワールドボーイで深夜放送を聴いていたし、AUX端子にエレキギターをつないだりもして遊んでいた。けれど音は小型ラジオの域を脱することはなかった。柔らかくて癒し感があって、甘い音…。そんな音のラジオがチボリのラジオだった。しかし価格は44000円。たかがラジオに出せる金額ではない。ならばヤフオクで…と狙っていたら、知り合いが盛岡の中古屋で見たという。価格は10000円。なんなら買ってこようか?というのでお願いした。かくしてチボリラジオのスイッチをひねって朝のラジオ体操を聴くのが日課となったのでした。ちなみにNHKのFM受信が弱いので同軸ケーブルのロッドアンテナをアマゾンにて購入した。

千徳城の因縁

千徳城への分岐には立派な看板が建っていた
二台のスマホで主郭の位置を確かめる

昨年暮れに北海道在住の方から電話があり、自分は「千徳城興廃実記」に出てくる千徳氏、そして「千徳城興廃実記」の執筆に関わった明治時代の千徳瀬兵衛の子孫だと言うのだった。過去に自分がタウン誌「みやこわが町」で特集した閉伊氏、千徳氏、払川氏など千徳関連の冊子は本誌のバックナンバー販売サイトから購入済みらしく、フレンドリーな感じでの問い合わせだった。その内容は冊子うんぬんではなく、明治時代に先祖の千徳瀬兵衛が宮古の千徳村を訪ねて「千徳城興廃実記」の執筆に関わったように。自分も瀬兵衛の足跡を辿りたいということであった。しかし今はコロナの時代であり簡単に出歩くのも難しいから、終息後に是非とも宮古に行くのでその時は面談し千徳城を案内してほしいというものであった。それから約半年が過ぎコロナも五類となり、札幌在住の瀬兵衛の子孫を名乗る方から連絡があった。自分たちも大病から復帰し年齢も70近いので今回を逃せば宮古行きは難しいであろうから、是非とも伺いたいとのことだった。そんなわけで6月中旬、千徳瀬兵衛のやしゃ孫に当たるという、本田氏、今氏の二名が札幌から訪ねてきた。まずは編集部で会ってその由縁を聞き、その足で早速千徳城へ向かった。城址を案内して、千徳氏由縁の寺、善勝寺と中世末期に南部氏に追われ千徳氏末裔が落ち延びたとされる岩船集落を訪ね、夜は市内の某焼き鳥屋で懇親会となった。これまた何かの縁、歳をとると色々な積み重ねが実を結ぶということは意外と多く、少年時代に遊び回っていた千徳城がこうして人の出会いにまでなるとは夢にも思わなかった。

百瀬寿のグラデーション作品

額が破損したまま保管されていた
サインもちゃんとある

市内の普通高校に変わった美術の先生がいるのは噂で知っていた。聞けば髪はかなりの長髪で伸び放題、ベルボトムのジーパンをはいていてヘアバンドで髪を止めているらしかった。そんなマンガみたいな高校教師が本当にいるというのだ。高校二年の秋、その先生が在席する普通高校の文化祭に行ってみた。もちろん美術部の作品展も見に行った。そしたら噂の教師は噂通りの格好でいた。とても学校の先生とは思えないファッションだった。よれよれのダンガリーシャツになんとピンクのベルボトム…髪は相当に長髪。当時、自分も長髪だったがこの美術教師の髪には負けた。しかも汚い。その先生の名は「百瀬寿」。当時の同級生たちは「ももせ」と呼んでいたと思う。へんてこな先生だったが、普通高校の寛容性にちょっと憧れた。そんな百瀬氏のグラデーションを入手した。額がなかったので取りあえず額装して一端飾って楽しんでから売却するつもりだったが、話を聞いた知り合いが即欲しいという。んじゃ、売りましょうということで眺める間もなく納品となった。
美術は好きで図工も美術もずっと5だった。子どもの頃はマンガ家になりたいとも思っていたほどだ。そんな僕が通っていた実業高校にも美術の科目があったがそれは商業美術というカテゴリーで、ネオカラーのべた塗りとかペンキ屋みたいな授業ばかりだった。それはそれで楽しいのだが、アート性はまったくなかった。別に西洋絵画に憧れるわけではないが、もっと早い時代に質のよいグラフィックアートに接したかった。自慢じゃないが僕は素質はあったと思う。ただあの時代は平均的な学業成績が求められていた時代だった。平均的な頭からは平均的なアートしか生まれない。タレント性はそんなとこにはない、オレを見てくれ…ともがいていた。できるだけ早くいい指導者に出会うことが才能の引き金になる人生はそこで決まってしまうのだなと思う。

千徳城と千徳氏の謎

ふたつのスマホで地図の城郭の位置と本丸を確認する

近所に千徳城という中世の山城址があって、その城主の血を引くという千徳瀬衛兵衛という人が明治期にこの地を訪れ、色々な言い伝えや家伝を元に『千徳城興廃実記』という書物を刊行した。書物とは言えその時代、印刷したわけではなくごく少数の和綴じの冊子を発行したようだ。その瀬衛兵衛のやしゃ孫にあたるという札幌在住の人から連絡があって、連休明けにそちらへ行くから案内してほしいと頼まれた。千徳城や千徳氏に関しては以前に何度も特集記事を書いているのだが、その子孫の方がくるとなれば無視もできまい。心して了解し、24日、千徳八幡神社から千徳城址へ案内した。その後、千徳氏ゆかりの善勝寺、落ち延びたという岩船集落を案内し、夜は今後の懇親を深めようと久々に某焼き鳥屋へご案内、したたかに酔って翌日は久しぶりの二日酔い。ご苦労様でした。

親友と再会

浄土ヶ浜を散歩するじじい二人。

連休に修学時代の友人が宮古にきた。彼とはかなり親しい間柄で中学時代はずっと一緒だったし、高校は別だったが、彼の一家が転勤したとき1年ほど僕の家に下宿する形で一緒に住んだ間柄だ。ケンカもしたけど中学高校時代の一番の親友でもある。そんな彼は千葉県の某市の自動車会社のフロント係をしている。元々整備士だったが今はフロントだという。中学校の時から将来は自動車整備士になると明確な目標を持っていた彼だったが、ある日、自動車を貰ったという。なんと彼の父さんがそんなに自動車が好きならこれで勉強しろと、車検が切れて廃車にする軽自動車を貰ってきて彼の与えたのだった。もちろん昨日まで普通に走っていたクルマだからエンジンもかかる。彼の家に遊びに行くとそのクルマに乗ってボンネットを開けて中を調べたりジャッキで上げて足回りを調べたりしたし、ナンバーがないから二人で押して行って近所の広場で乗ってみたりした。ガソリンは70円ぐらいの時代だったし危険物の規制も甘く中学生でも4リッター缶で買ってきて入れることができた。クルマはダイハツフェローMAXでエンジンは2サイクルだったからオイルも足した。ある夜内緒で二人で山道を走りラリーごっこもやった。そのうちバッテリーがあがって完全に動かなくなって本当に廃車となたが、アニメ「イニシャルD」のとうふやの親父同様、中学生にクルマ与える変わった教育方針だったといえよう。けれどそれが彼の人生の指針を確かなものとしたのは事実だ。法律や常識より発想が大切で、それがいい結果を出すということなんだと思う。そんな彼は奧さんをはじめ娘や孫など総勢9名に囲まれて盛岡の実家を訪ね、その足で観光をかねて宮古に立ち寄ったというわけだ。レンタカーの大型ハイエースを往復運転だがやけに笑顔だった。自動車、バイク、ギター、ガロ、ビートルズ、アイドル(麻丘めぐみ)…色々なことを二人で乗り越えた。まさに旧知の親友というわけだ。そのうち今度は自分が千葉まで会いに行こうと思う。

足立スイングハーモニー

ビンテージな管楽器と時代感ある渋いハードケース

もう5年ぐらい前になるか、近所に従姉の田中和子さんというおばあさんが住んでいて、たまには顔を出していた。そのおばあさんの夫は田中敏夫さんというローカルの音楽家で、なんと大御所作詞家・星野哲郎にも面識がある人だった。当時「ひかげ者」という曲を作曲しテイチクからレコードが出ていた。この曲を宮古出身の演歌歌手・下沢四郎が田中敏夫さんの許可を得て持ち歌として熱海のホテルで歌っていたが、これを偶然に星野哲郎が聴き感銘、どこの誰の曲だ?ということになり星野哲郎は当時の足立ベニヤに勤めていた田中敏夫を訪ね蟇目の社宅へやってきたという。結局は星野哲郎と田中敏夫の共作は生まれなかったが、これがきっかけで音楽家としての田中敏夫はローカルの音楽現場ではばたくことになった。以後、当時(昭和38〜42年あたり)の宮古で開催された歌謡ショーや映画スターのリサイタルでの演奏は田中敏夫率いる足立スイングハーモニーが担当していた。カラオケのない時代、演奏の上手い地方の生バンドは引っ張りだこだったのだ。ただ、バンドの母体の足立ベニヤ刈屋工場は、合板製造会社ではあったが組合活動が盛んで、メーデーなどにも積極参加しておりその度に足立スイングハーモニーも駆り出され田中敏夫も音楽同様に組合活動にのめり込んでいった。
田中敏夫亡き後、晩年スタジオ状態だった田中家の機材をヤフオクで売り払った。手数料を引いて合計で40万円ほどの売上を未亡人となった田中和子さんに渡した。そんな経緯があったが、その数年後、こんなのもあったと持ってきたのが写真のトロンボーンだ。ケースにはカギが掛かったままで中味のチェックが出来ない状態だったので壊さなければならないからと断ったが、和子さんは「これは売るのではなくあなたにあげるから」と言って置いていったのだった。その後和子さんもなくなり、ケースのカギを壊して中味を確認したらクラシックなトロンボーンが出てきたというわけだ。「ニッカン」というメーカーのビンテージだけれど、高値がつくのかゴミなのか。

シャネルとモナカ

シャネルのかんざし
猫のモナカ

またしてもヤフオクで簪を落札した、しかもシャネル。通常の日本製の簪とは造りが違っていて髪に挿す金属部分は釘のように太くて、まるで必殺仕事人の飾り職人が使う武器のような佇まいだ。飾り部分はクサリで球を作った感じにシャネルのココマークをあしらって銀メッキした球が付いている。日本式は刺す部分が真鍮で柔らかく松葉状に二股になっていて、しかも球の先は殿方の耳掃除をする耳かきがついている。シャネルにはそんな意匠はまったくない。はっきり言って武骨だ。使い勝手はいいが美的ではない。
誕生日にネコのモナカをもらった。あわせて谷中堂のネコクッキーももらった。谷中堂は東京台東区にある招き猫工房だ。招き猫だけでなくカフェではネコクッキーやネコのモナカなども販売していてネコマニアにはたまらない店だ。東京のネコと言えば自分があしげく骨董関連で通っていた頃は世田谷のネコの寺「豪徳寺」が有名で何度か立ち寄った。殿様が愛馬で遠駆けした際に夕立に遭い、ネコが導いた寺で雨宿りできたとか言う伝承だったと記憶している。ちなみに豪徳寺の近くの小田急線「経堂」にもけっこうおいしい和菓子の工房があってよく買い求めたのだが、今はもうその店の名前を忘れてしまった。