「爺さま探検隊が行く」カテゴリーアーカイブ

一ツ石山の廃虚展望台と猿屋裏湿原

一ツ石山の廃虚展望台
一ツ石山三角点
廃虚から早池峰を望む
猿屋裏湿原
モウセンゴケ
大仁田牧場の牛

もう、何年も前からタイマグラから荒川高原に出て遠野に到るコースの途中の山の上に建物があるのを確認していた。そこへ登ってみたいものだとずっと思っていた。が。しかし、近年、その建物が道路から見えなくなった。朽ちたのかと思ったが、何のことはない山に植栽されたカラマツの背が伸びたため見えなくなったのだ。山の名前は一ツ石山。標高はしっかり1000mを越える。旧川井村と遠野市を隔てる境界線の山で、南側には高山湿地帯がある三垂牧場(さんだりぼくじょう)がある。Googleのマップで航空写真を見ると、山の頂上には今も施設らしい建物があるようだ。聞けば、この建物は昔、遠野市が建てた早池峰山を眺望する展望台だったようだが、あまり利用されず、後に斜面にカラマツを植栽、その枝が張ってそれまでの登山道が消滅し近年は誰も行かなくなったらしい。いるのはシカのみ。高い所と廃虚が好きなズサタンとしては見ておかなければならない施設ではないか…。と言うわけで、ちょっと藪漕ぎしてみますか。ついでに、荒川高原から早池峰登山口の小田越に向かう途中にある猿屋裏湿原も散策して、モウセンゴケを撮影した。ちなみに猿屋裏という地名は猿(モンキー)とは無関係の当て字らしく、去り屋が転訛したらしい。去り屋とは姥捨てのデンデラ野であったか、遺骸を捨てた化野(あだしの)であったのか。

久慈市山形の内間木洞の氷筍

関係者待遇で入洞
入口付近の氷筍
べっぴんの湯源泉側
峠付近は圧雪凍結
洞内の陥没ドリーネ
ドリーネの氷筍

久慈市山形地区は、旧九戸郡山形村だ。平成の合併で久慈市に統合されたようだ。その昔、山形村、葛巻町あたりは、めったなことでは行く用事もなく、岩手県の広さが四国並だということを実感したもんだ。実際、自分が岩手県民だということは事実だが、今現在でも未だに訪れたことのない県内市町村はかなりある。岩手は広すぎるのだ。だから最近はそんな状態で何が世界旅行だバカ野郎!!と、ズサマはひねくれた性格に拍車がかかっている状態だ。そんなことはさておき、2月10日、山形地区にある極寒の内間木洞へ行ってきた。内間木洞は毎度お馴染み龍泉洞、安家洞、猿沢の大穴など一連の安家石灰岩層の中にある鍾乳洞で、南北に支洞を持ち約6000mの総延長だという。この鍾乳洞が夏には冷気を吐き出し、冬は地表の冷気を吸い込むことから、鍾乳洞入口付近の滴下した水が石筍のように凍る、氷筍となって林立するというのだ。しかも、昭和48年に開発のため鍾乳洞入口を拡張したため、冬期間はますます氷点下の冷気が入り込み、氷筍の数が増えて名所となったらしい。この日は宮古から北上し岩泉~安家へ出て県道7号線をさらに北上し白石峠を越えて久慈市山根地区から旧山形村へ。峠の気温はマイナス4℃であったが、白石峠の明け方はなんとマイナス14℃だったという。県北の山間の村は区界や藪川などを凌駕する冷気が立ちこめる極寒地帯なのであった。現場では前もって取材を申し込んでいたこともあり、関係者待遇で待ち時間もなく入洞できた。ちなみに、内間木洞は基本的に公開されておらず、冬季の一般公開はこの日一日のみ。あとは夏の内間木洞祭りの一日だけなのであった。お昼は出店で手打ちそばを食べ、帰りは新山根温泉・べっぴんの湯で温まって帰った。しかし、途中で飲んだ冷たい湧き水に当たり、普代付近で腹痛、三鉄田野畑駅のトイレに駆け込み難を脱した。腹に応えた一日だった。

初トレッキングは船越半島多々羅山へ

花崗岩ゴロタ岩
たたら山三角点
霜柱

月半ばに船越半島たたら山へ今年初のトレッキング。この山の中腹にわずかだが砂鉄の鉱脈があって、これを戦時中に採掘し当時のタイセイ鉱業所(ラサ工業の戦時社名)に運んだというのだ。この抗道が数ヶ所残っており、その昔、その穴へ入ったことがあるという人がいるのだ。その人は、秀全和尚の資料などを掲載した郷土誌『大網』を編集発行した大浦の古老で、その人物に穴のことを聞くのが早道と思い、昨年暮れ、しかも年越し近くにおじゃまして話を伺ったのだった。それによれば、昔は漉磯地区に行く道はなかったが、その道を行き多々羅山北西部から登り、頂上を経由せずに南に下山して小谷鳥地区に出たというのだ。ならば、今回はその逆コースで小谷鳥から多田羅山を目指せばよいのだ。
基本的に多々羅山頂上への道はないのだが、小谷鳥から林道を歩いてそれらしい露岩を探した。頂上近くの南斜面に花崗岩のゴロタがある所を発見。周囲に車を回したような形跡やブロックなどを発見。しかし、鉱山特有の生活痕跡がない。周辺を調べ尾根に到着。その足で多々羅山の頂上を目指した。多々羅山の標高は380mとたいしたことないが、頂上付近に道はなく、半島のため似たような景色が広がり、いつしか太平洋と山田湾を取り違え方向がとんちんかんになった。最終的にスマホのGPSがあるというのに、しっかり迷って冬枯れの森を彷徨ったのであった。

ズサタン総決算

水晶が取れた穴
門神の抗道
船越半島・赤平金剛
薬師岳山頂
番号表記がある
切り取られた跡
三鉄に乗せて
三鉄車両内
小袖海岸を行く
小袖集落の急坂
久慈駅前にあった
三船十段の空気投げ

今年のズサタンは凍った閉伊川とその支流、鬼米内沢の雪中行軍にはじまり、三陸町越喜来の首崎トレッキング、摂待の畑の大穴到達、田老青野滝の明神崎散策、高滝森トレッキング、真夏の花原市門神、三鉄じぇじぇじぇサイクリング、奥岩泉PT境界、薬師岳ヒカリゴケ、船越半島五色の断崖までを掲載し、すでに花原市門神の抗道も発見探索済みだ。思えばあれこれ歩き回っては色々なものを見てきた。中でも岩泉町北西部の安家坂本地区にある今から2億5千万年も前の無酸素生命絶滅期の地層が露出しているというPT境界は衝撃的であった。PTとはペルム紀と三畳紀の境を意味する頭文字なのだがその間の100万年間に及び地球上に酸素がなく、96%以上の生命が滅びたというのだ。その後、生き延びたごく一部の生命が再び進化を遂げ、今の生命体へと遺伝子を伝えたというのだ。有名な巨大恐竜が滅びるそのはるか昔の時代だ。そのような地球的歴史を考えると、自分たちの一生はおろか、日本の夜明けだとか言う明治維新も、明智・信長、三日天下も本能寺も、義経北行も鎌倉幕府も、アテルイも縄文ほんの一瞬の出来事であり、人の営み、人が作ってきた歴史の構図も僅かなものだと感じてしまう。まさに諸行無常のPT境界であった。
そして、己の年齢的衰えを実感したのが真夏の企画・花原市スタンドバイミーであった。少年時代に遊んだフィールドを再び訪ねる企画であったが、里山だからと甘く見て挑んで、まさかの気温34度の山中で熱中症に陥り、ダウン。しかも、注意力散漫から露岩周辺を探索中にでスマホを落とす失態。幸いにもスマホは発見したが、真夏の山を甘く見ていたのは確かだ。年末には目的の穴を無事発見したが、近頃、山歩きも慣れた気がして、いい気になっていたことを反省せねばなるまい。企画進行中の豊間根福士最深部のとはな鍾乳洞探索、船越半島たたら山鉱山、旧山形村の内真木洞氷じゅん観察など来年に向けての課題も満載だ。ズサマ、まだまだ、へばってはいられない。

三鉄じぇじぇじぇサイクリング

小袖海岸を行く

集落から海を見下ろす

小学生に道を聞く

舟渡海岸で昼食

自転車ドナドナ

お疲れ様、宮古着

三陸鉄道の乗車サービスの中にサイクルトレインというのがあって、列車に自転車を乗せて移動し、移動先で自転車を降ろしてサイクリングできるのだ。もともとは、沿線の住民がママチャリを乗せて三鉄で町へ出て買い物などをして帰るというのが本来の企画らしいが、昭和30年代ならまだしも、今どき、ママチャリを列車に乗せて買い物に行くような主婦などいいるわけがないのだ。それでも企画は三鉄利用促進の一環だから自転車の持ち込み運賃は県が負担するからタダなのだ。そんなわけで、7月某日、三鉄に自転車を乗せて陸中野田へ。そこから三崎半島の久喜を経て小袖へと自転車のペダルを漕ぐ。この日の久慈地方は午前中から晴れて絶好の日和だったのだが、久喜集落の心臓破りのダラダラ坂に体力を消耗、ズサマは何度も自転車を降りて押して歩いた。峠を越えてからは下り坂で小袖海女センターまでは楽勝。そこから海岸沿いに走り久慈駅へ。早めに手続きを済ませ久慈道の駅土風館にあるに昭和レトロ館を見学。再び久慈駅へ戻り自転車とともに乗車し宮古駅へ戻ったのであった。

野外探索用スマホケース

ちょっと大きめ

紙の地図も入る

二重の落下防止に

山歩き用のスマホケースを買った。花原市でのスマホ事件があったその日に夕方にワークマンに行って、即、購入した。腰につけたマグネット式のスマホホルダーでは木の枝などにひっかかってしまいマグネットの蓋が開くと、滑りやすいスマホなどなんなく滑り落ちるのだ。ここは、しっかりとしたファスナーで開閉し、もしもケースを落としても発見しやすい目立つ色で、かつ衝撃にも強く踏んでもそう簡単に壊れず、万が一を考え浮く素材であることを考慮し、ポリカーボネイトの水色のケースを選択。ベルトから外れても落とさないようショックコードも購入した。こういう買い物は、自分の性格上痛い目に遭ったことを忘れないうちにしないとだめなのであった。

花原市スタンドバイミー

鉄塔が見えてきた

目的の露岩に到達

まさかの熱中症に陥る

井戸でクールダウン

小学校5年で藤原小学校から千徳小学校に転校した。当時、閉伊川河口に架かる橋は花輪橋、ユラユラ揺れる歩行者専用のラサの仮橋、そして宮古橋しかなかった。従って住んでいた地区から閉伊川を挟んで対岸に引っ越すということは、大きく迂回せねばならず、そこは近くに見えても彼の地、まさしく彼岸へと流されるように落胆した。転校生は友だちが一人もいない見知らぬ地でその学校に馴染む努力を一人でやらなければならないわけで、クラスの力関係も知らないから要らぬ事でこずき合いになったりもした。そんな中で気さくに話しかけてくれたのがM君だった。そしてM君を経由して絵が上手いK君とも友だちになった。そんな昭和45年の初夏であったか、M君の誘いで花原市の門神周辺探検に行くことになった。M君の話では、家の前の畑で縄文土器やヤジリが取れるし、門神トンネルの上には水晶が取れる穴があるという。そして花原市と上根市の中間辺りの沢から山に登れば、昔、何かの鉱物を掘ったらしい坑道があるというのだ。
そんな今を去ること40数年目の花原市探検をトレースしたいとずっと思っていた。その気持ちは歳を重ねるほど大きくなり、当時の景色が残っているかどうか気になっていた。しかし、当時の記憶は断片的で、少年時代に探検したルートが判らない。ならば、再び当時歩いたコースを巡ってみようと思った。検索サイトで航空写真を拡大し地理院地図と照らし合わせて大体の場所やコースを選定す。いつものズサタンなら、鍾乳洞や廃坑、道無き山や谷をトレッキングしているから、少年時代に冒険したという花原市なんて、たいしたことなかろうと甘く見ていたのだが、三度のトライも実らず廃鉱跡の穴は発見できなかった。しかも三度目トライで門神の露岩探索中に30度を超す気温上昇から熱中症を起こしへたり込み、しかも注意力が落ちている状態でヤブ漕ぎをした際に、スマホを落とす始末。スマホでGPSアプリを使うのもいいがこれじゃあかん。ズサマは反省したのであります。

高滝森1159.7mロケハンと攻略②

奥の尖りが高滝森

牧場から早池峰が見える

雪が残っています

藪漕ぎで行くしかない

高滝森三等三角点

頂上のプレート

翌週、ズサタンはいつものWILLで東金沢壷倉牧場へ。途中南川目で何度も道路工事のため止められ時間ロスをするも、午前11時、装備を整え牧場脇からアタックした。と言うのも、基本的には高滝森への登山道はないのだ。地図を見ながら目印テープを結び灌木の林や、笹の密生地を行く、登山とは少し趣が違う高山トレッキングなのだ。片道約2キロ、高滝山手前の1140mほどの無名の峰を越えて、鞍部に降りて、そこから尾根に沿って高滝森頂上を目指すという計画だ。牧場脇を歩きながら意を決し笹の密集地へ突入。笹をかき分け泳ぐように下ると、木材切り出しの道に出た。この道は無名の峰を巻くように進み、高滝森とはちょっと方向が違うけれど、仕方がない、道があるならここを行くしかない。
しばらく行くと方向転換に使ったような広場に出て道は消失。再び笹の密集地をかき分け尾根に取り付き、ここからは地図を見ながら彷徨うことになる。標高1000mを越すのでまだ灌木は芽吹いていないから、時々高滝森の姿が見えるので、行くべき方向を得ながら進む。もちろん枝に目印テープを巻いてゆく。無名の峰は灌木の林になっているが頂上付近はモナドック化しており、大きな花崗岩の岩塊が転がっている。そんな凹みや穴が、落ち葉が積もって隠れているので危険だ。ここは一旦ルートを逸れるが尾根を迂回して安全策をとった。そのうち何とか無名の峰と高滝森の鞍部に到達、ここからはひたすら1140mまで登る。途中、登山道らしき道が見え隠れしたり、かなり古いジュースの錆びた空き缶があったりするから、おそらくこのルートで間違いなかろうとひたすら林を登る。落雷で朽ちたブナやダケカンバの原生林が所々にある。それでも灌木はあまり太くはないから30年ほど前にはこの辺りは一度伐採されているらし。灌木の林の中に空が見えてきて頂上の気配が漂ってきた。見た感じ岩場になっている高い所を見つけて周辺を調べると三角点を発見。灌木でまったく見晴らしはないが、ズサタンの執念で高滝森到着。感想はGPS装備があっても一人じゃ無理だな。というのがズサタンの本音であった。午後1時、高滝森で遅い昼食を楽しんだ。

高滝森1159.7mロケハンと攻略①

たっぷり雪が残る

牧場の扉は開いていた

高滝森と牧場

管理小屋付近

牧場から見た高滝森

アップで

爺様探検隊、略して、ズサタンが発足当初から豊間根方面を狙って散策していたのだが、中でも数年越しで発見した豊間根林道最深部・オソノエラノ沢上流の山腹にあるオソノエラ鍾乳洞、オソノエラノ沢が流れ込む本流をさらに上ったネコイノ沢北岸のにある大谷鉱山本坑、西二抗風穴などを探検した。その後は同じく豊間根の大荒川林道最深部にある、隠れ切支丹が暮らしたという撃ガ岩屋と白糸の滝なども到達した。そして、それら山奥の秘境においても視界が開けると見えてくるのが高滝森なのだった。結局はこの高滝森を東西南北から巻くようにズサタンは歩を進め色々な場所を散策してきたという傾向もある。もちろん、別方面、別角度から高滝森とは関係のない場所も探ってはいる。が、しかし、この、市街地からも見える目印ともなる山はいつかこの足で登ってみたいものだと思っていたのだった。
そんな中、連休最終日にFTR223を引っぱりだしてロケハンがてらに高滝森の北西側に開けた宮古市と大槌町の境にある東金沢壷倉牧場へ向かった。まずは、一昨年前の台風以来この林道を自動車が走れるかを確かめるのが目的だ。道は荒れてはいたが、牛を上げるシーズンでもあり大きく痛んだ部分には砂利が敷かれなんとか普通乗用車でも通行は可能と思われた。帰りは丁度、南川目十一面観音と十三仏がお祭りだったので軽く取材して帰路についた。

青野滝、岬から峠へ。田老マニアック探訪

手前の滝

青野滝の隠れ滝

この下に滝がある

重津部海岸で昼食

明神崎と加茂神社

明神崎から南を望む

田老の青野滝という集落に、地名の起こりとなった滝、青野滝がある。この滝は青野滝と対岸の重津部集落との間にある相当に深い谷底にあって、その存在は知られいるが、訪ねて行く人はほとんどいない。なにせ、谷は明神岳から流れる青野滝川が遙かな時をかけて海岸段丘を削ったもので、北部陸中海岸の田野畑の海岸線を思わせる急傾斜なのだ。アタックは青野滝川南岸の重津部からにした。青野滝側は岩盤が多いうえ、入山禁止の看板が多く無関係なトラブルに巻き込まれるのは御免だ。まずは道から尾根に沿って獣道を行くが、すぐに崖となる。ここから立木に掴まりながらジグザグに斜面を降りて、青野滝川に注ぐ小さな沢に出た。ここから沢に沿って斜面を降りて谷底に到達した。滝は地理院地図にも表記されるように二段滝になっている。手前の滝は2mほどの小さなものだが、対岸の岩場に沿って進むとその奥にもうひとつの滝がある。落差は10m弱だがこの滝は手前にある屏風のような岩で隠され正面からは完全に見えない隠れ滝だ。その滝壺は真っ青だ。伝説によれば、その昔、海と川を行き来する巨大な魚アオは冬になるとこの青野滝の滝壺に潜み春を待って海に出たという。アオが潜む滝壺に安易に近づくと取って食われるので人々は秋から春は青野滝に近づかなかったという。滝を堪能し、重津部浜で昼食を食べ、その後は青野滝からその先端の明神崎へ。突端の奥宮で絶景を堪能、その足で今度は明神岳南側の飛山牧場から鍋割峠へ。北上山地の山塊を眺めて帰路についた。