「爺さま探検隊が行く」カテゴリーアーカイブ

ズサタン報告・白見山と金糞平

難解で一筋縄では解決しない、大槌町をロケハンした。町役場から城址公園をまわり、小鎚川を遡って、新山高原の風力発電施設を経て、遠野へ降りて周辺を散策してその日は帰宅。後日、再び新山高原から窓貫峠を経て、白見山山腹の白見牧場へ。当然ながら、昨年の台風で道路は被災したままなので、途中から徒歩で古代の製鉄遺構とされる金糞平へ向かった。牧場の取り付け道路は傷んでいたが、歩くには支障がないので、クマの痕跡を確認しながら難無く到着した。金糞平のヤマザクラは大槌町の文化財に指定されているというが、大槌町教育委員会に問い合わせたところ昨年の台風以来、道が崩落したので職員は確認していないという。現地のサクラはとてつもない長さの枝振りだから、ちゃんと支えをしないと風害や雪害で枝が折れてしまいそうだ。歩けば行けるのだから、ちゃんと確認し保護してほしいものだと思った。また、遠野市琴畑から登ってくる林道は樺坂峠となるが、この林道のループ橋的部分はものの見事に崩壊していた。もともとあんな場所に盛り土でループを作るという設計に無理がある。あまり人の目に触れない林道だから、やっつけ仕事で建設会社のみが儲ければいいってもんじゃないと思う。どうせ作るならしっかりした道を。道は要らないと思ったら潔く作らないという決断が必要だ。などと、ズサマ連は政治や行政を勝手に批判し盛り上がって帰宅となった。帰りは川井村北上山地民俗資料館に寄り道して、次の探索地である長者森の情報を得たのでした。

新山高原の風車群
台風被害のまま放置されている
ループ林道は無残な状態
金糞平に到着
立派な看板があった
これがいわゆる鉄滓
willと樺坂峠の標識
新山ロケハンでキツネ登場

ズサタン報告・鵜ノ巣隧道と槇木沢橋

北部陸中海岸の景勝地・鵜ノ巣断崖展望台から見える断崖下を手掘り隧道で島ノ越の海岸までつながる遊歩道を歩いた。片道2㎞ぐらいだから、たいしたことないと思いきや、砂浜に足をとられ結構な疲労感を感じた。国立公園の岩盤に削岩機で穴をあけてしまうという、その時代ならではの強引な手法。しかも、穴の位置が意外と低く、海がちょっとでも荒れれば通行は水浸し覚悟という、マニアックなスポットだ。震災で岩が詰まったりしたという情報もあったが、なんとか通れた。凪もよく、干潮と重なったこともあり海岸沿いは潮だまりがあったりして本当にいい散歩だった。ただ、断崖は50~70mもあるのでちょっとした落石でも大けがとなるのでズサタンヘルメットは必須だ。また、隧道内にあった自然の入り江にはもの凄い量の流木が押し込められており、その流木を越えて到達した先には、鍾乳石があった。あたかも動物の内蔵を思わせるその表面はさすが自然のなせる技だ。隧道探索後は、真木沢に架かる、古い木橋を探し真木沢源流部を探索。朽ち落ちた木橋を発見したのだった。

迫る断崖を撮影
津波で隧道に入った大岩
この奥で鍾乳石アートを発見
隧道内部で発見した鍾乳石
隧道に漂着した流木群
真木沢源流部に朽ちる二代目槇木沢橋
真木沢橋と並行する思案坂大橋

禰々子森の名称はどこからきたのだろう?

その昔、地図作成のため地元民の案内で現地調査が行われ、村や集落の名称や山の名前や沢の名前などを聞き取り調査で記録した際、地元での呼び名を漢字に置き換える作業はかなり難しかったと思われる。漢字にはそれぞれに意味があるからその土地の特徴を生かした漢字が割り振られたであろう。また、古文書などに古くから記載がありそのまま引き継いだ地名もあろう。しかし、中には地元民ですらその呼び名に該当する漢字を推測できずにカタカナ表記のまま今に伝わる地名もある。それらはタイマグラ、サンボトジ、タモンタワ、オソノエラなどで未だ漢字が割り振られていないまま地図に掲載され、アイヌ語ではないのか?などと勝手に推測されることもある。また、漢字表記されてはいるがその漢字から特徴がどうしても読み切れないものもある。だが、名前というものはそのものを表す特徴であり存在の意味やその命の根幹に相当する。従って適当に付けた名前というものは存在しない。そんな理由から禰々子森という名称を探ってみると、まず難字であり旧字の「禰」の意味を知らねばなるまい。禰は自分に最も近い先祖、すなわち祖父、父親の御霊屋(おたまや・霊廟)を意味する。となれば禰々とは遠い時代にこの周辺で暮らした人々の祖霊が集う巨大な霊廟だったのでないか。また「子」とは可愛いものに対する方言的装飾の「…コ(酒ッコ、鳥ッコなど)」ではなく北の方角を意味する「子(十二支)」であれば「子子子」で「ねねこ」「ねねね」と読むこともできる。三ツ石や大沢の開墾地では畑から縄文土器が出土しており、はるか昔、三ツ石から大沢付近には縄文集落があったことは事実であろう。集落近くに薬水が湧く井戸があり、その上流には巨大な滝壺をもつ滝がある。砂金の沢を登り蓬平を経て禰々子森があるのだ。現在より身近にリアルな霊魂が存在した縄文時代、そして狩猟と稲作が混同した縄文的弥生時代を経て禰々子森は先祖万霊を祀る森であったのではなかろうか。

三ツ石林道の最後の民家
山奥に縄文集落があったっようだ
薬水にはシートが被せてあった
薬水を汲んで持ち帰る

爺さまは、禰々子森へ

禰々子森は旧川井村と旧新里村の境に聳える1000mを超える二等三角点をもつ里山だ。山嶺東側には東北電力腹帯水力発電所の貯水ダムがある大沢、西には早池峰山塊を望み、尻石沢、中ノ又沢が小国川へと注ぐ。南東に延びた尾根は大沢源流部の蓬平を経て宮古、山田、大槌の境である東金沢壷倉牧場へとつながる。今回は腹帯三ツ石から大沢川に沿って林道を行き、台風被害で林道が損壊した場所から禰々子森へ歩いた。途中から林道を逸れ地図上では点線表記の山道を進み標高580m付近の尾根までをトレッキングしたのだった。さて、藩政時代の川井村では凶作で米がとれない時には砂金で年貢を納めいたという。川井村の鉱業は遠く藤原時代から稼働し砂金採掘は重要な産業だったようだ。そんな砂金鉱床があったとされるのが禰々子森から南西方向にある蓬平周辺だ。「よもぎ」の名が付く地名の特徴は作物が育たない痩せた土地を意味し、生えるのはせいぜい蓬程度という意味だ。従って蓬平とは1000m旧級の尾根沿いにある広大な痩せ土地なのだ。しかし、ここの地下には砂金の元となる金鉱床が眠り、それを得るため藤原時代から鉱山が稼働していたというのだ。昭和14年には宮古製錬所(ラサ工業)に対し金品位、1トンあたり260グラムの鉱石、約54トンを売鉱したという記録があるが、その後操業したという記録はないらしい。昨年の台風により大規模な土石流が発生し国道が寸断されたが、北上山地に整備された林道も大きな被害を受けた。多くの林道は沢が流れる法面が土石流と化して崩れており尋常ではない量の岩石が沢に流れ込んでいる。そんな崩落した岩盤の中に金鉱床があっても不思議ではないわけで、特に藤原時代から砂金を産出していた蓬平を源流とする大沢で砂金が採れても不思議ではない。また、大沢には禰々子森東側に広がる花崗岩帯があり、これらの岩で大沢源流部が構成され、そこには川石が回転しながら石に穴を作る甌穴なども見られる。これらの穴の底や岩盤の溝に台風による洪水で砂金が溜まっている可能性も否定できない。禰々子森周辺のトレッキングはそんな夢も見せてくれるのだ。

林道が消失していた
花崗岩が転がる源流部
クマの爪痕です
禰々子森のクマダナ
標高580m付近の尾根で目印を巻く
たった今、したばかりのクマの糞を発見

大沢・三ツ石・禰々子森ロケハン

連休中日の5/5、ズサタンのターゲットでもある、禰々子森(1009m)とそこへ通じる腹帯大沢と小国の繋を結ぶ三ツ石林道をロケハンした。使用したのは当然オフロードバイクのftr223。しかし、このバイク、格好はオフロードだが、実際の走りはオンロード寄り。林道を走るには最適といっても、それはある程度整備された林道であり、ズサタンがアタックするような林道には不向き。本当はtlr250がベストなのだが、なかなか買えるものではない。さて、今回は腹帯の三ツ石地区から東北電力の大沢ダムを経由して禰々子森へと向かった。どうせ林道は昨年の台風10号で大きく損壊し到達は無理だと最初から予測はしていたが、その被害は凄まじいもので、林道損壊どころか、途中から林道は喪失していた。やむなく、地図上では点線表示の旧道を行くも、こちらも途中で橋がなくなっており行き止まり。やむなく、林道の起点となる小国の繋地区から登るも、これまたftrで走れるような道路ではなく、キャブの油面が乱れて数回のエンスト後に引き返した。台風の影響は思ったより大きく、林道復旧は見込めないであろうし、川井地区の林道を元通りに戻しても、だれもそこを走る人はほとんどいない。北上山地は自動車が走行する林道はもう要らない。人が歩く山道でいいのである。

三ツ石林道、台風で不通
この付近にかつて集落と墓碑があったらしい
ヤマザクラが散る林道にて
桐内へ向かう古風な橋
橋の欄干に座って昼飯

ズサタンは大谷山鉱山探索

爺様探検隊・略してズサタンでは、今回、豊間根林道最深部にある今は閉山した大谷山鉱山の探索を行った。当初、計画は昨年訪れたやはり豊間根林道最深部にあるオソノエラ鍾乳洞の再調査とその反対側にあるというトマリアナとう岩屋、その近辺にあるという無名の鍾乳洞を探索予定だったが、急遽、オソノエラ沢とひと山隔てたネコイノ沢にある大谷山鉱山を散策した。この鉱山はマンガン鉱と石灰岩を産出したということだが、いつの時代に創建しいつ閉山したのかはわからない。戦前に稼働し戦後の昭和30年代後期まで存在したというが、おそらく晩年はいくつかの企業に転売されながら、本体の歴史の記録が薄れたのであろうと思われる。とはいえ、鉱山とその試掘坑道は100箇所を超えるというほどで、山の斜面には多くの穴が存在した。今回は林道沿いの穴と左斜面中腹の穴に入って周辺を散策した。

滑落状態で滑り下りる
ズサタンヘルメット
中が二又になった坑道へ入る
坑道には枕木がある
坑道入口付近の岩肌
ついにレールを発見した

ズサタンヘルメット完成

ズサタンは爺様探検隊の略称、そのヘルメットに爺様探検隊と描いても何ら面白くもないので、この際、70年代安保闘争などで使われた革マル派や中革派、中ピ連などのヘルメットの図案を参考に、全爺闘(闘は略字)にした。その名も「全国爺様闘争連合(架空団体)」の略だ。全学連がデモを繰り広げていた時代、僕は小学3年~5年ぐらいだった。白黒テレビに映るデモ隊と警官隊の衝突を見て、この人たちは何をやってるのだろう?と思った。中学に入った頃はそんな学生運動も下火になり、過激な思想家は地下に潜行した。世間はやる気のない若者が増え、無気力、無関心、無責任の三無主義に無感動を加えた四無主義が横行し、シラケムードこそが美徳だった。そんな時代に思春期だった僕は革命の終結や祭の終わりに必ずくるそんな雰囲気だけを賛美し無気力を装っていた。担任の30代の教師には「お前の考えはいつも上滑りだ」と叱られたが、その時代、その意味がわからなかった。革命や闘争もせず、血も流さないで、あたかも傷ついた戦士をきどっているように見えたのだろう、今になって思う、勉強だけがすべてではないと思いつつも、とただ単に受験に対して腰が引けていたのだ。そんな、半端な僕も、すでに中年の爺様になり、ズサタンの思想のもと、秘境探検に精をだしている。そんな、ズサタン活動の中で、意外とターゲットになるのが岩屋とか鍾乳洞だ。このようなフィールドを散策するための必需品がヘルメットだ。とはいえ、ただの白いヘルメットじゃつまらないわけで、少年時代にみた学生運動時代のデザインをフューチャーしたヘルメットを制作した。全爺闘のロゴは当時の書体を真似、イラストのだよーん、バカボンパパ、丹下段平などはその時代に学生等に支持されていた少年マンガのキャラクターだ。

バカボンパパ
丹下段平の絶叫
ずさたん、だよーん
ずさたん・ハレハレ軍団
だよーんで武装

こいつぁ、春から縁起がいいや。大網観音到達

昨年の11月に探索した船越半島大網観音にある秀全ゆかりの岩屋は、藪漕ぎと峰越えで大網沢へと辿りつきそこから沢を源流部まで探索したにもかかわらず空振りに終わった。その後、基本から情報を見直し、山田町教育委員会・生涯学習課で見せられた古い地図にあった「観音沢」という明記に注目、大網沢より一本北に位置する、この沢こそが大網観音のある沢であると確定し、年明け2日、再アタックとなった。コースは以前通り、登山道から逸れて地籍調査の目印テープをたよりに観音沢を目指した。しかし当初、安易に想定していた場所には岩屋などなく、結局は観音沢が海へ到達する海抜3mあたりまで降りてしまった。しかたなくそこから観音沢の斜面をジグザグに登りながらそれらしい場所を探したが、やはり見つからない。話は前後するが、年末に相方の安倍氏が経営する喫茶店に最近、大網観音へ行ってきたという客がきて、安倍氏はスマホの画像を見せられたという。その客は20代後半の大槌町に住む鞭牛研究家だという。その画像には太い杉の木が写っていたことから、今回は杉の木も含めて探した。しかし、登る斜面に杉はなく広葉樹とアカマツが茂るだけだ。海抜150~170mまで登り今回の探索も空振りに終わるかと思われたが、二手に分かれ大きく南に回り込んだ位置に巨大岩塊を発見、10mほど上から覗くとV字の小さな滝の流れ筋を発見。滝下には杉の巨木もある。発見を知らせるため声を出したが届かず、諦め気味にスマホを出すとアンテナが立っていた。すかさず、逆方向上部を探索している相方に電話する。こんな山奥の道もない秘境で電話が通じる快挙。トランシーバーも不要の時代になったと痛感した。その後合流しまずは危うい斜面での昼食。それから岩塊を巻くように移動し斜面を登り大網観音に到達した。滝はやはり枯れており水量は僅かだ。岩屋内部には如意輪観音と脇侍、岩屋前に鰐口が吊され、湯小屋があった場所には鞭牛の石碑が建っていた。湯ゴヤ跡には風呂桶、鉄砲釜、煮炊き用の竈、囲炉裏跡、小屋の部材とトタン板が残っていた。大網観音は観音沢上流ではあるが、かなりトリッキーな場所にありその本体は巨大な露岩で隠されていた。その風景はやはり南川目の十三仏霊場に似ており、巨大岩塊の露岩が景色を織りなしやはり修験好みであったかと納得した。そして今回、知ったのは資料にした地図に示された場所がまったくでたらめで目測であったこと。津波で流されたかも?などというありえない情報もあったこと。位置情報や到達した人々が案内人ありきであったことなど反省点も多かった。

大網観音岩屋内部の如意輪観音と脇侍
滝の水量はごく僅かでした
秀全入定の15年後に牧庵鞭牛が建てた供養碑
風呂釜と洗面器、調理用の竈
この狭き敷地に湯治場小屋があった
岩場の先端まで出みた
観音沢を登る

爺さま探検隊が行く。今年度活動報告

話は前後するが、爺さま探検隊(雑誌編集の私と異人館・安倍氏)は、今年早春の川井下平沢の巨大氷柱散策を皮切りに、豊間根林道最深部のオソノエラ洞窟探検(接触編2・到達編1)、大荒川林道最深部・隠れ切支丹伝説・撃ヶ岩屋探検、折合・高滝散策、早池峰・徳兵衛山登山などを行い、11月には船越半島の大網観音岩屋散策、そして年末には箱崎半島千畳敷トレッキングを敢行した。その中で、今年最も難航したのが11月の船越半島大網観音岩屋であった。この岩屋は江戸時代船越の大浦村に流れてきた旅の智芳秀全という僧侶が、縁あってこの地を入定の地と定め即身成仏したのであるが、この僧が座禅三昧に入ったのは大網の岩屋であった。晩年この地に滝の水を引き入れた湯治場が建てられ秀全を偲びその御加護にあやかろうとする人々で賑わったという。その痕跡は昭和54年頃に地元の郷土史愛好家によって調査された記録はあるが、その後、その地は寂れ自然にのみ込まれた秘境となって長い月日が流れた。これを再発見し記録するため11月にその難関に挑んだが、探検隊の予想した場所に岩屋は発見できなかった。故に、この岩屋発見のため再び情報収集を行い、地固めをして年明けにアタックする予定となっている。写真は船越半島大網沢散策時のものだ。

大網沢を目指してガレ場を降りる
沖を行く苫小牧行きフェリー
大網沢の海岸からとどヶ崎灯台が見える
大網沢を登る
いかにも修験好みの岩相
変わったカメムシを発見

爺さま探検隊が行く。箱崎半島・千畳敷

12月は大方の予想通り激闘の月になりました。それでも暖かい陽射しがあった時は、軽くバイクなど乗ったのですが、月初めにFTRのオイル交換をして、その後、クラブマンに二度ほど跨って15キロほど走った程度でした。やはり年寄に寒さは堪えます。そんな、12月初旬の某日、爺さま探検隊は、釜石市鵜住居から東に延びた箱崎半島先端の千畳敷をトレッキングしました。寒冷前線が通過し風は強かったのですが、半島南側の千畳敷はほぼ無風でポカポカ。往復8キロを歩き、その後は三陸自然道にある、寂れた大仮宿トンネルを目指したのですが、道路自体が森化しており自動車での走行は不可能、時間も押し迫り途中で引き返しました。箱崎白浜という小さな漁港の町外れの藪にスズキGSX400と思われるの朽ち果てた車両を発見。よく見たらまだナンバーがついてました。税金誰かの課金されたままなんでしょうね。廃バスは大仮宿トンネルへ向かう途中で発見。トヨタの古いマイクロバスでエンジンはヘッドの形状からおそらく4気筒SOHCの1500CC程度。トヨタのロゴも見たことない形状。きっとこの時代はエンジンだけトヨタで上物は別会社製だったのかも知れません。内部は冷蔵庫や養殖漁業資材が廃棄されていました。レストアしたらかっこいいと思います。

箱崎千畳敷の彼方に三貫島が見える
箱崎千畳敷を望む
大きな潮だまりのような淡水の池
センターのロゴが井形に「T」
運転席に座ってみた
このまま朽ちるのか